10月の伝道法語
令和6年10月9日
10月の伝道法語です。
人にはいろいろなタイプがありますが、大別して「世間通と人間通」といった分け方があります。世間通は文字どおり、社会に通じた人といえます。情報に明るく、仕事もできて、いわゆる世渡りのうまい人でしょう。
それに対して人間通は人を見る眼がある人、人間の本質をよく知っている人です。もちろん、いずれにも通じていれば申し分がありませんし、そういう人がいることも事実でしょう。
しかし、世間通も人間通も、その視点はあくまでも他人です。ほんとうにむずかしいのは、自分を知る「自分通」ではないでしょうか。他人を知れば知者ですが、自分を知れば覚者となり、仏教では悟れる人を指すのです。
10日遅れの彼岸花
令和6年10月2日
あさか大師の桜並木に、彼岸花が咲きました。今年の暑さのため、お彼岸より10日も遅れての開花です(写真)。かつては「お墓の花」と呼ばれ、縁起が悪いと思われていましたが、今や各地の群生地は大人気です
日本は春彼岸には木蓮が、お盆には蓮が、秋彼岸にはこの彼岸花と、いずれも仏の花が咲く「仏の国」です。聖徳太子以来、神を父として、仏を母として習合してきました。
神棚を敬い、仏壇を拝み、親がその親を大切にする姿を見せることが、子供に対する家庭教育の根本です。だから、「親の背中を見て育つ」のです。言葉でいうより、その背中を見せることが大切です。
お近くの方はぜひお越しください。10日遅れの彼岸花です。
一食布施の功徳
令和6年8月11日
あさか大師では「一食布施」をおすすめしています。これは月に一度、一食分の食事代を布施するもので、どなたにでも無理なく布施の功徳を積むことができます(写真)。
すでに、元旦の能登半島地震の被災地に対して、お見舞い状を添えて124542円を送金しました。そして、この度は山形県豪雨被災地と南海トラフ地震被災地に対して、110432円を送金しました。また地元のお寺や知人に対しては、早々にお見舞いのメールを発信しました。
仏教は布施をもって修行の根底とします。なぜなら、本尊さまへのお供えも読経も、人に対する挨拶も親切も、先祖への供養も、身辺の清掃も、すべてこれ布施にほかならないからです。そして布施こそは、あの世に持ち越せる唯一の財産であるからです。お金も地位もあの世には持ち越せませんが、生前の布施による功徳だけは、魂となっても残ります。
だから、私は多くの方々に「一食布施」をおすすめしています。お願いしているのではありません。功徳が積める、この上ない善行をおすすめしているのです。ご希望の方はホームページの「お問い合わせ」からご連絡ください。振込用紙をお送りいたします。また毎月の先祖供養をなさっている方は、黄色い用紙にお書き添えください。
被災地の方々には謹んでお見舞いを申し上げますとともに、一日も早い復興を願っております。
「足ることを知る」の本当の意味
令和6年5月31日
京都の龍安寺に変ったつくばいがあります。「吾唯知足(吾れ唯だ足ることを知る)」の四文字が、〈口〉の字を中心に右回りに配置されたユニークな逸品ですが、ご覧になった方も多いと思います(写真)。
ところで、「足ることを知る」とはどういう意味なのでしょうか。一般には「欲をかかずに、与えられたもので満足しなさい」といった教訓として知られています。〈小欲知足〉などといいますよね。いわゆる清貧の思想です。
しかし私は、どうも腑に落ちません。仏教はそんな程度の教えとは思えないからです。お大師さまはズバリ、「眼あきらかなれば、途にふれてみな宝なり」とおっしゃっています。つまり、しっかりと目を開ければ、いたるところに宝があるということなのです。小欲どころではありません。
私は窮地におちいった時、この言葉にどれほど励まされてきたことでしょうか。活路は必ずあるのです。乗り越えられない苦しみを、自分が背負うはずはないと信じることです。ただ、気持ちが落ち込んだり、ヤケをおこしていると、その足元の宝、つまり窮地を乗り越えるヒントが見えません。
足元をしっかりと見ましょう。宝ともいえるヒントが必ずあります。その宝を見つけ出した時、人は足ることを知るのです。思い浮かんだ人がいたら連絡しましょう。故郷に帰って墓参をしてみましょう。久しぶりに書店をのぞいてみましょう。眼を開けば、そこに宝があるのです。
「一食布施」の義援金
令和6年1月17日
元旦から皆様に呼びかけておりました「一食布施」による能登半島大地震の義援金(124452円)を、石川県の被災地委員会に送金しました。「一食布施」とは一食分ほどの食費を施す運動で、あさか大師にお参りした方々にお願いしているものです(写真)。
人は何かを手に入れるために生きていますが、本当の喜びは与えることにあると仏教は説いています。これを〈布施〉ともいい、〈喜捨〉ともいいます。喜捨とは喜んで捨てるという意味ですが、捨てるとは、つまり与えることです。与えることに喜びを感じる時、人は得ること以上に心の充実を味わいます。この喜びを味わった時、その魂は一段と清まるのではないでしょうか。
まもなく大寒を迎え、被災地の皆様の困窮は察しても余りがあります。一日も早い復興をお祈りいたしますとともに、引き続き「一食布施」のご協賛をお願いしたいと思います。〈断捨離〉の理念は、家の中に限らず、私たちの心の中でこそ生かしたいものです。捨てることで得るものこそ、至上の宝です。
人は「動かせる」ものか
令和5年9月22日
本棚を整理しましたら、D・カ-ネギー著の『人を動かす』(創元社)が出て来ました。著者は二十世紀のアメリカにおける人間関係研究の先駆者で、同著は世界的なベストセラーとなりました。私も若い頃に赤線を引いて何度も読んだ、なつかしい本です(写真)。
どんなことが書いてあるのかを簡単にお話しますと、第一部は「人を動かす三原則」、第二部は「人に好かれる六原則」、第三部が「人を説得する十二原則」、そして第四部が「人を変える九原則」です。たとえば、第二部においては「議論に勝つ唯一の方法として議論を避ける」に始まり、「誤りを指摘しない」「こころよく認める」「おだやかに話す」「相手にしゃべらせる」「相手に思いつかせる」「対抗意識を刺激する」などといった項目を並べて解説しています。
たしかに、議論に勝ったからといって、相手の感情を傷つけるばかりですし、相手の意見をさえぎる人は好かれません。また人を叱ったり、注意を与えるといいながら、ほとんどは腹を立てて怒っているに過ぎません。こうした対人関係の悩みに対して、この本は確かに大きなヒントを与えてくれます。
ただ、私の意見を一つだけお話しますと、人は「動かせる」ものでしょうか。人は「動かす」ものではなく、「動いてもらう」という考え方のほうがよいように思います。人を手品のように操って動かすのではなく、自分から動いてもらえる関係を築くことが大切でしょう。そのためのノウハウは、この本の中にもたくさんあります。
動かしたかったら動いてもらいなさいという逆発想こそ仏教的でありますし、『般若心経』の教えでもあります。久しぶりに手にした本から、そんな感想が湧きました。皆さん、いかが。
続・世にも不思議な霊験談
令和5年5月14日
『日本霊異記』からのお話を、もう一つご紹介いたしましょう。現在はいろいろな出版社から刊行されていますが、講談社学術文庫ならすぐ手に入ります(写真)。今日は第十九の『法華経』を読む人をあざけり、悪い報いを受けた人の説話です。
奈良時代、山城の国(京都)相楽郡に一人の〈私度僧〉がいました。この当時、僧侶になるには国の許可が必要で、この人のように勝手に僧侶を名乗っていた人を「私度僧」と呼んだのです。名前はわかりませんが、この人はいつも碁ばかり打っていました。どうやら、あやしい私度僧としか思えません。
ある日、この私度僧が知人と共に碁を打っていると、托鉢の僧がやって来て『法華経』を読みつつ、布施を乞いました。私度僧はこれをあざけり笑い、わざと自分の口をゆがめ、声をなまらせ、まねをして唱えました。知人は「恐ろしいことだ」といいながら、碁を続けました。それからというもの、その私度僧はどうしても碁に勝てません。そればかりか、自分の口がゆがんでしまったのでした。医者を呼んで治療をしても、ついに治ることはありませんでした。『法華経』に「法華経を信ずる人を軽蔑して笑う者があるならば、現世で歯が抜け、唇は曲がり、鼻は平らになり、手足はねじれ、目はすがめになるだろう」とあるのは、このことだったのです。そしてお話は、たとえ悪鬼にとり憑かれても、経を読む人をそしってはならない。言葉はよくよく慎むべきであると結ばれています。
弘法大師は病気の原因として、四大不調(身体的な病気)・鬼病(霊的な病気)・業病(宿業の病気)の三つをあげています。四大不調は身体の病気なので、医薬の力によって平癒します。しかし、鬼病や業病は医薬だけでは平癒しません。鬼病はいわゆる霊障から、業病は前世からの因縁による病気で、これらは真言の祈りによって、はじめて平癒するのです。この私度僧の場合は、経典をあざけり、これを軽んじた業病ということになりましょう。
それにしても、たとえ私度僧とはいえ、経典を何と思っていたのでしょうか。因果の報いとはこのことです。『法華経』と托鉢の僧に対し、よほどの懺悔を続けねば口のゆがみは治りません。皆様も、経典や真言を唱える時の訓戒にしていただきたいと思います。決しておもしろ半分に唱えてはなりません。肝に銘じましょう。
世にも不思議な霊験談
令和5年5月11日
世にも不思議な霊験談を集めた本に『日本霊異記』があります。古代におけるさまざまな仏教説話を、薬師寺の僧・景戒が書き残したもので、正式な書名を「日本国現報善悪霊異記」といいます。第二十八には孔雀明王の呪法で有名な役の行者(神変大菩薩)のお話も載っています。興味のある方は、ぜひ読んでみてください。私は若い頃から東洋文庫(写真)で愛読してきましたが、今はいろいろな出版社から刊行されています。
たとえば、こんなお話があります。
その昔、高麗(朝鮮)の学問僧で、元興寺(奈良)に住む道登という方がいました。ある日、宇治橋(京都)を渡っていた時、一つの髑髏が人や獣に踏まれているのを見つけました。道登はこれを悲しみ憐れんで、従者の万呂という者に、木の上にねんごろに安置させました。
ところが、その年の暮れの夕方、ある〝人〟がやって来て、「道登大徳の従者の万呂という方に会いたい」といいました。万呂が面会すると、「大徳のお慈悲をいただいて、この頃はだいぶ楽になりました。今夜でなくては恩返しができませんので、どうかついて来てください」と言って、万呂をある家に案内しました。
家の中には食事が用意されていたので、その人は万呂にそれを施しました。ところが、夜半になって、「私を殺した兄が来るから逃げましょう」というではありませんか。万呂が訳を聞くと、「昔、私は兄と共に商売に出かけましたが、私だけが銀四十斤も稼ぎました。すると兄は、これをねたんで私を殺し、銀をうばったのです。以来、私の頭は人や獣に踏まれ続けました。大徳のお慈悲をいただいて救われましたが、あなた様の恩も忘れられず、今夜その御礼をしたかったのです」と語りました。
その時、その人の母と兄が霊を供養するために家の中に入ってきました。二人は万呂を見て驚き、わけを聞きました。万呂がことのいきさつを語ると、その母は驚き、その兄に「私の子はお前に殺されたのか。賊に殺されたのではなかったのか」とののしりました。そして万呂を拝み、丁重に接待をしました。つまり、この日はその人の命日で、あの食事はそのために用意されていたということになるのでしょう。
万呂は帰って、このことを道登大徳に伝えました。そして、お話は死人の霊や白骨でさえこうであるなら、生きている人がどうしてその恩を忘れられようかと結んでいます。現代の日本では親のお葬式をしない人が増えましたが、これを聞いたら何と思うのでしょうか。お骨も大切に弔わねばなりません。そして、命日には特別の意味があることも忘れてはなりません。
仏さまはどこにいるのか
令和5年5月4日
人は奈良や京都に、仏さまを見たいといって出かけます。そして今や、奈良も京都も日本人はもちろん、世界中の人々であふれています。また国立博物館で「密教美術展」や「〇〇寺名宝展」があると、人は遠くから時間をかけ、交通費を払い、二時間も並んで入場します。そして、混雑した中で目ざす仏さまを拝観し、高価で分厚く、重い図録まで購入します。
これはなぜなのか、皆さん、わかりますか。今月の掲示伝道はこのことを書きました(写真)。
そもそも、仏さまはいったい、どこにいるのかといいますと、実は私たちの心の中にいるのです。つまり、お釈迦さまが悟りを開かれたのは、もともと仏さまが心の中にいたからだという意味です。お釈迦さまが仏というものを新しく考え出したわけではないし、発明したわけでもありません。もともとご自分の心の中にいた仏さまというものに目覚めたわけです。だから、仏さまのことを〈覚者〉ともいうのです。
そうすると、私たちの心の中にも仏さまがいるわけです。「一切衆生悉有仏性」などといいます。すべての人は仏になれる資質が備わっているという意味です。残念ながら、私たちには煩悩という雲が多く、光り輝くその仏性がなかなか見えては来ませんが、仏像に心引かれるのは、実はその仏性があるからなのです。
仏師がノミをふるって仏像を彫り出す様子を、皆さん、想像してみてください。仏師の心に仏さまがいなければ、仏像など彫れるわけがありません。そうでなければ、仏さまというものを新しく考え出したことになってしまいます。エジソンのように発明したことになってしまいます。
仏像ももともとは木材に過ぎません。木材という塊りです。しかし、仏師の心の中の仏さまが活動するから、あのような立派な仏像になるのです。もちろん、その仏像も仏さまであることに違いはありません。だから、心の中の仏さまが、同じ仏さまである仏像を求めるのです。類は友を呼ぶというではありませんか。
世界中の人が奈良や京都に集まるのも、博物館の催しに集まるのも、その理由は同じです。そして、皆さんの心にも仏さまがいることを忘れてはなりません。腹を立てたり、悪口をいったりはしても、それは月にかかった雲なのです。その雲のかなたに、光り輝く仏さまがいることを忘れてはなりません。「雲晴れて 後の光と思うなよ もとより空にありあけの月」という無窓国師(鎌倉時代の禅僧)の道歌をご紹介して、今日の法話といたします。
まずは聞くことからです
令和4年12月1日
私は毎月ごとに、境内の一角で掲示伝道をしています。今日から12月に入りましたので、また書き換えました。今月は、
大事なことは
何度も聞くことです。
初めて聞くつもりで
何度も聞くことです。
と書きました(写真)。いつも書体には苦心します。活字のような楷書では味がありません。かといって、古筆のようにくずして書くと、現代人は読めません。また、三行か四行で字数をまとめるのも大変です。目立つように、いつも朱墨で書いています。
どのお経も常に、「このように私は聞いた」という文句で始まります。つまり、お釈迦さまから、このように私はその説法を聞いたと前置きして始まります。また仏教には〈多聞〉という言葉があります。どれだけ多くを聞いたかが、いかに重要かという意味です。修行の始まりは、まずお話をよく聞くことからという意味がわかりますでしょうか。
このことは、仏教の修行ばかりにかぎりません。何を学ぶにも、まずは先生のお話を聞くことからなのです。それも、大事なことは、初めて聞くつもりで何度も聞くことです。何度も聞くことで、記憶に留まり、意識の底に蓄積され、体で覚え、自分のものとなるからです。〈体得〉というではありませんか。体が得るまで、くり返しなさいということです。
私も若い頃は、大事なことは何度も聞きました。そして、紙に書きました。そして、壁にはりました。私たちは天才ではありませんから、それでも身につくまでには時間がかかります。こうして覚えた言葉は、今になっても忘れません。人生の宝です。宝は簡単には手に入りません。まずは、先生のお話を聞きましょう。何度も何度も聞きましょう。多聞を第一と心がけましょう。