続・お金はお客さまです
令和8年9月21日
あさか大師では昨日の午前11時半より金運宝珠護摩を奉修し、雨天の中、たくさんの方々が参詣されました(写真)。

私はお金はお客さまのようなもので、神さまからのお預かりものだと思っています。お預かりものである以上、自分が所有するものではありません。大切に扱わねばなりませんし、失礼があってもなりません。
このことは、この世のものすべてについても、同じことが言えるのです。自分の体も、両親からの、そして先祖からの預かりものです。一杯の水も、水天さまや龍神さまからの預かりものです。スイッチ一つで発火するガスやIHの熱も、火天さまや荒神さまからの預かりものです。もちろん、毎日のご飯は天照皇大神さまからのお預かりものです。
私たちは「家を手に入れた」と思っていますが、これもその土地の地天さまからお借りし、一時的にお預かりしているということなのです。だから、その土地に家を建てる時は地天さまにご挨拶をして、了解を得ねばなりません。これが地鎮祭の本当の意味です。単にお祓いをするのではありません。昔の人は、こういうことが常識だったのです。
金運を望む方は、お金に対して謙虚に礼を尽くすことが大切です。〝自分のもの〟と思わず、お金の神さまからお預かりした大切なお客様と、どう接するかを考えることです。その接し方しだいで、自分のところに留まるか、次のところに移るかを、お金の神さまが判断するはずです。
お金は「天下のまわりもの」です。それをお預かりするにふさわしい人だけがお預かりするのです。皆さまも、そのふさわしい人になり、金運を高めていただきたいと思います。
お金はお客さまです
令和8年9月18日
あさか大師では9月20日(日)午前11時半より、金運宝珠護摩を奉修いたします。ご参詣の皆様は如意宝珠の功徳を直接にいただき、金運銭(写真)を持ち帰って、そのパワーを持続させましょう。遠方の皆様は同時件念によって、感応道交を目ざしましょう。当日は雨天の予報ですので、十分なご用意をなさってお越しください。

金運を望む方は、お金に対して謙虚に礼を尽くすことが大切です。なぜなら、お金は自分が所有するものではなく、お金の神様からお預かりするものであるからです。お預かりする以上は、いわば大事なお客さまです。お客さまに対して失礼があってはなりませんし、気持ちよく過ごしていただかねばなりません。
お金は自分の能力と徳に応じて与えられる、いわば自分自身の分身でありますが、またその分身は同時にお客様でもあるということです。真言密教では自分の心の仏様(法身)と共に、絵木の仏様(応身)と法界の仏様(報身)をお客さまとしてお迎えし、供養し、祈願を込めます。自分自身の分身がお客さまであるという意味がお分かりいただけますでしょうか。
そのお客様に対して悪口を言ったり、乱暴に扱ったり、偏見を持てば、お客さまは必ず離れていきます。そして、お金の本質を十分に理解し、社会に対する能力と徳のある人を求めて移動します。お金を称して「天下のまわりもの」とは、なるほど名言なのです。この道理を理解しなければ、金運を望むことはできません。
金運宝珠護摩に祈願を寄せる皆様は、この道理を理解し、謙虚な気持ちで臨んでいただきたいと思います。ただ「お金がほしい」という欲だけでは、決して達成することはすることはできません。お金の神様に好かれ、お金に好かれる生き方をしていただきたいと思います。
続・お金のほんとうの姿
令和8年8月16日
あさか大師では本日11時半に、金運宝珠護摩を奉修しました(写真)。お参りの皆様は浄炎のパワーに浴し、遠方の皆様は同時祈念によって感応道交を果たしました。

金運を得るにはお金のほんとうの姿を知ること、そしてお金を大切に思い、お金を好きになることが大切です。同時にそれは、お金から大切にされ、お金からも好かれることでありましょう。大切にされ、好かれるためには、それだけの心がけがなくてはなりません。
お金は生きものです。お金に感謝し、礼を尽くしましょう。お財布は清潔にしてカードやレシートで息苦しくせず、お札は向きをそろえて入れましょう。放り投げたり、お尻のポケットに入れたまま座ってはいけません。こういうことをおろそかにする人は、決して金運には恵まれません。
このお護摩は金運を呼ぶために、皆様の背中を押すためのものです。行動をおこすには、何かの転機が必要です。社会に貢献し、社会に喜ばれる何かを与えるため、その転機となることを願っています。皆様が願っていることを行動に移すため、このパワーが役立つはずです。
お金のほんとうの姿
令和8年8月14日
あさか大師では8月16日(日)午前11時半より、金運宝珠護摩を奉修いたします。お参りの皆様には金運銭を差し上げますので、如意宝珠のパワーを持続させてください。遠方の皆様は同時祈念をして、感応道交をはかりましょう。
明治時代の偉大な林学博士で「公園の父」とまで呼ばれ、また大富豪でもあった本多静六(写真・『私の財産告白』実業之日本社より)は、「経済の自立なくして精神の自立はありえない」と喝破しました。私は青年期にこの言葉を知り、お金に対する考え方が一変しました。なぜなら、お金は汚いもの、お金持ちは悪い人だという考え方が脳裏にあったからです。特に日本人には、この傾向が強いのではないでしょうか。

しかし、これは大変な間違いです。お金は社会が自分を評価してくれる目安であり、いわば自分自身の分身です。自分を大切にするなら、お金も大切にすることです。自分を好きになるなら、お金も好きになることです。そして何より、生活のために、いかにありがたいかを知ることです。人は「衣食足りて礼節を知る」からです。
お金は決して不平等に与えられることはありません。社会に貢献する何を与えたか、社会に喜ばれる何を与えたかで、お金もまた与えられるからです。お金持ちと呼ばれる人は、それだけの生き方をしています。人によっては、悪いことをしてお金を得る場合も、一時的にはあるかも知れません。しかし、そのようなお金は、いずれは必ずその人から離れていきます。また、それだけの償いをさせられます。不当な利益を得た分、その埋め合わせをさせられるからです。
私がこの金運宝珠護摩を奉修する理由は、お金のほんとうの姿を知ってほしいため、お金の神様に好かれるため、如意宝珠のパワーをいただいてほしいためです。また社会に貢献し、喜びを与えてほしいためです。その手助けとして、このお護摩によって、皆様の背中を押したいと思っています。
続・「所得」とは「所徳」なのです
令和8年6月21日
あさか大師では本日午前11時半より、金運宝珠護摩を奉修しました。梅雨多湿の中、大勢の皆様が参列し(写真)、遠方の皆様は同時祈念に臨みました。

お護摩に先立ち、このブログと同じ「所徳」についてお話をしました。どのような職業であれ、主婦であれ、高齢者であれ、子供であれ、好かれることほど役立つ才能はありません。そして、好かれるとは、徳があるということです。徳とは人として誠実であること、親切であること、やさしいこと、ウソをつかぬこと、約束を守ることです。人とは結局、ここに行き着くのです。そして、開運も金運も、すべてはここに行き着くのです。
私は経営能力が高いわけでも、もちろん富豪でもありません。それでも、金運宝珠護摩を続ける理由は、真理とは一つであるという自信があるからです。この真理を知るものは、必ず報われます。そして、生きてきてよかったと思うものです。皆様の金運増大が叶いますように。
「所得」とは「所徳」なのです
令和8年6月19日
あさか大師では6月21日(日)午前11時半より、「金運宝珠護摩」を奉修します。お参りの皆様は如意宝珠のパワーを直接いただき、金運銭(写真)を持ち帰って成就を目ざしましょう。遠方の皆様は同時祈念によって、お護摩との感応道交をはかりましょう。

私は「所得」とは、「所徳」であると思っています。なぜなら、所得が増えるためには、より多くのものを世の中に与えねばなりません。自分の持つ能力の何かを与えねば、所得にはならないからです。しかし、どんなに能力があっても、その能力が認められねば所得にはなりません。世の中には立派な能力を持ちながら、それを生かせず、不運な人がたくさんいます。
その理由は何かといいますと、人に認められる〈徳〉が足りないからです。能力は認めさせる力ですが、徳は認められる力です。この能力と徳とがかみ合ったとき、人は所得を増やすことができるのです。だから、所得とは実は「所徳」なのです。
徳とは認められる力ですが、それは〝好かれる力〟ともいえましょう。好かれることは、人生において最も役立つ才能です。家族にも、友人にも、お客にも、動物にも、植物にも、そしてあの世の人にも好かれることです。ここまで好かれれば、所得は望まずとも増えていきます。所得が増えるためには、「所徳」を増やすことです。「所徳」こそは金運の秘訣なのです。
お金は生きものです
令和8年5月17日
本日午前11時半より、金運宝珠護摩を奉修しました。たくさんの皆様が参詣し、如意宝珠のパワーを受け、金運銭をいただきました(写真)。また遠方の皆様は、同時祈念によってお護摩との感応道交をはかりました。

前回、「お金が人を選ぶのです」とお話しました。これは、「お金は生きものです」いう意味でもあります。生きものである以上、自分が好むところを求め、自分が嫌うところを避けます。私たちはいろいろな人を見て判断し、人を選んで生きていると思うかも知れませんが、実は〝選ばれる〟立場であることを忘れています。
お金もまた同じです。自分はお金を稼いでいると思っていますが、実はお金から選ばれているのです。どういう人を選ぶかといえば、もうお話するまでもありません。自分にふさわしい功徳のある人を選ぶということです。そして、自分を理解し、自分に好意を寄せ、自分を大切にしてくれる人を選ぶということです。人と人との交友と、何ら変わりません。
お金に選ばれる功徳が積めるよう、私たちも励みましょう。金運宝珠護摩はそのことを目ざしています。ただ生きるだけではなく、ただ働くだけではなく、人が喜び、人から感謝をされる何かを与えましょう。それによって自分が心から喜べる時、功徳が積めるのです。そして、生きものであるお金はそういう人を選ぶのです。
お金が人を選ぶのです
令和8年5月15日
あさか大師では5月17日(日)午前11時半より、金運宝珠護摩が奉修されます。お参りの皆様は如意宝珠のパワーを直接いただき、金運銭(写真)を持ち帰って成就を目ざしましょう。遠方の皆様は同時祈念によって、お護摩との感応道交をはかりましょう。

私たちはこの世の財産を、あの世に持ち越すことはできません。つまり、この世の貨幣は、あの世では何の役にも立ちません。それでも、私たちは人生の大半を、お金のために費やしています。あの世に持ち越せないお金のために生きねばならないとは、何んという矛盾でしょうか。
私はいつも、あの世に持ち越せる唯一の財産は〈功徳〉であるとお話しています。功徳とは人に好かれ、人に感謝されるプラスの想念(オーラ)です。金運宝珠護摩が目ざすのは、実は功徳によって金運増大をはかり、この矛盾を超越することです。
お金に対する最大の間違いは、「人が損をすれば自分は儲かる」という考えです。多くの人がこの過ちを犯しています。その結果はどうなるでしょう。必ず信用を失い、恨みを買い、結局は人からもお金からも逃げられます。
本当のお金持ちは、何をしたら人が喜ぶか、何をしたら社会の利益になるか、これだけを考えているのです。つまり、何をしたら功徳になるかを考えているということです。すると黙っていても、お金が後ろから追いかけて来るのです。だから、お金がいくらでも入るのです。普通の人は反対です。どうしたらお金になるか、どうしたら儲かるかと、後ろからお金を追いかけています。お金は追われることを嫌います。これでは、お金に嫌われるのが当たりまえです。
お金を稼ぐといいますが、実はお金が人を選んでいることを忘れてはなりません。どんな人を選ぶかというと、人に好かれ、人に感謝される、つまり功徳のある人です。功徳は単に働くだけで得られません。単に商品を売るだけでは得られません。人に好かれ、人に感謝される何かを与えることです。そういう人を、お金は選んでいるのです。
如意宝珠の功徳
令和8年4月19日
あさか大師では本日、金運宝珠護摩が奉修されました。多くの参詣者が集い、如意宝珠の功徳に浴しました(写真)。また、遠方の皆様は同時祈念によって、感応道交を果たしました。

この金運宝珠護摩は如意宝珠を勧請し、その功徳をいただくものです。如意宝珠はこの自然界の縮図で、あらゆる功徳が込められています。その先端から金運のパワーが湧出し、堂内に遍満するよう祈りました。
護摩中は皆様の読経や真言の響きが融合し、そのパワーがいっそうの威力を発揮します。このパワーを持続させ、金運を呼んでいただきたいと思います。「祈りは力である」ことを知り、世の中のお役に立っていただきたいと思います。
4月の金運宝珠護摩
令和8年4月17日
あさか大師では4月19日(日)午前11時半より、〈金運宝珠護摩〉を奉修いたします。いつもお話していますが、お金の本質を正しく理解し、お金の大切さを知り、お金に好かれる人生を目ざします。お参りの皆様には金運銭(写真)をお渡しして如意宝珠のパワーを持続していただき、遠方の皆様には同時祈念によって、感応道交を目ざしていただきます。

お金について人はよく、世の中は不公平であるとか、理不尽であるとか言います。しかし、それは間違いです。お金は正確で、平等で、公平に人の手を渡ります。それは世の中に対して、何を与えたかによって決まります。だから、与えずして得たお金、つまり詐欺や不当な手段で得たお金は、一時的にはその人に留まっても必ず離れていきます。また、ギャンブルで財をなすことはありません。なぜなら、運命のルールに反するからです。ギャンブルをするなら、運命の神様にしかられない程度に楽しむことです。
お金は「得る」ものではなく、「預かる」ものと知りましょう。世の中を渡るお金を、それにふさわしい人が、一時的に預かるということです。だから、「天下の回りもの」というのです。
預かりものである以上、責任をもって大切に使わねばなりません。その使い方が、次の「ふさわしい人」を決めるのです。お財布には向きをそろえて入れましょう。カードで膨らませ、呼吸もできないようにしてはなりません。お金に好かれるためには、お金を大事に扱い、感謝を込めることです。そして、「ありがとう」と語りかけることです。

