開運の秘訣
令和4年10月5日
私は今年11月末に、『九星気学立命法』という著書を(株)青山社より刊行します。
〈立命〉という用語は、初めて聞くという方が多いかも知れません。宿命や運命に対し、人生を改善するために〝命を立てる〟ことが立命で、陽明学では造命ともいいます。つまり、宿命や運命という人生のシガラミの中で、新しい人生を切り開くための方法といえるのです。立命は江戸時代まではよく知られていましたが、明治以降はしだいに忘れ去られました。しかし近年、安岡正篤先生の著書や講義によって少しずつ復活しています。
ところで、皆様は宿命と運命の違いがわかりますでしょうか。簡単にお話をしますと、宿命とは「宿した命」で、絶対に変えられない人生の定めです。つまり、人間として生まれてきたこと、男女いずれかの性に属したこと、決まった父母や子がいること、そのほか呼吸や食事をしなければ生きてはいけないこと、睡眠をとらねばならないこと、やがては死を迎えねばならないことなどがこの範疇です。
これに対して運命とは「運ぶ命」「運ぶ人生」です。〈運〉が大きく関わります。家庭や結婚がうまくいってるかどうか、仕事は成功しているかどうか、性格はどうであるか、金運や財運はどうであるか、といった宿命よりは少し変えられそうな範疇をいいます。
占いでは名前や方位で運命を変える方法があります。私もよく用いますが、ただ大切なことは、これによって自分が変わらなければ運命も変わらないということです。主体はあくまで、自分であるということを忘れてはなりません。またプラス思考で運命は変わるともいいますが、挫折を味わったり失敗を繰り返した人は、なかなか簡単にはいきません。
では、立命とは何かといいますと、徳を積むことによって人生を変えることです。運がいい人は、必ず徳があることを知りましょう。徳とは人に好かれることです。運がいい人は必ず人に好かれます。その人に対してプラスの想い(好意)を寄せる量が多ければ多いほど、人はその想いを受けて運がよくなります。つまり、プラスの想いが気となり、エネルギーとなり、オーラとなり、運を切り開くのです。
それはこの世の人ばかりではなく、あの世の人、つまりご先祖に対しても同じです。だから、先祖供養をすると開運するのです。そのほか、ペットからも植物からも好かれれば、さらにいうことはありません。植物にも心があることは、鉢植えのそばで悪口をいうと、花の数が減ることでもわかりましょう。とにかく、何にでも好かれるためには、好かれるような徳を積むことです。
これは反対のことを考えれば誰にでもわかります。嫌われる想いのエネルギーにつつまれた人は、開運など望めるはずがありません。運がいい人とは、人そのものがすばらしいからなのです。徳を積むことは開運のための最高の方法です。私はいろいろな占いもプラス思考も学びましたが、結局は徳に行き着くことを確信しています。好かれることは、何より大切な才能であり、開運の秘訣なのです。
続続・金運心得帖
令和4年6月22日
最後の⑨~⑫です。ここからは、お金の住まいの一つである財布についてお話をします。
⑨財布はお金に居心地がいい長財布を使いましょう。
人と同じように、お金も居心地のいい場所を欲します。心地よくくつろげる、やすらぎの長財布を使い、古くなったら新しく変えましょう。二つ折りの財布は、居心地がいいとは思えません。財布にはその人のお金に対する考え方が、はっきりと現れます。世の中を見てください。裕福な人ほど清潔で立派な財布(必ずしも高価なものではなくても)を持っています。それは裕福だから持っているのではなく、持っているから裕福になるのです。しかも、手垢で汚れていたり、古くなってヘタっていることもありません。つまり、お金に対して、それだけ敬意をはらっているということなのです。
⑩財布の中はお金の向きをそろえて入れましょう。
財布のお札は向きをそろえて入れましょう。また、お札の数字も偉人の肖像も、〝逆さづり〟はいけません。お金をありがたいと思ったら、そんなことはできません。それがお金に対する礼儀です。これは少しばかりの気づかいを惜しまねば、誰にでもできることです。ところが、「お札は逆さまに入れた方がよい」という意見もあります。財布を開いて上向きに見えれば、金運が〝上向く〟というのですが、私は賛成できません。逆さづりにしたら、上向くどころか、出る一方(笑)です。問題はきちんと向きをそろえることなのです。つまらない意見に振り回されてはなりません。
⑪カードの厚みでお金の呼吸を妨げてはなりません。
何度も申しますが、お金は生き物です。呼吸もすれば感情もあります。財布の中にカードやレシート、割引券などをいっぱいに詰め込んではなりません。パンパンに膨らませた財布の中では、お金は呼吸も出来ません。現代はどこへ行ってもカードばかりですが、本当に必要でしょうか。どうしてもカードが増えてしまう人は、専用のカード入れを用いましょう。お金そのものより、カードの方を大事にしてはなりません。財布の中のカードを、もう一度見直してみてください。
⑫手持ちの財布を尻ポケットに入れてはなりません。
これも、やってはいけないマナーです。財布を尻ポケットに入れて座れば、お金が悲鳴をあげます。お金とのつきあいは、人づきあいと同じです。体の上に座られて、喜ぶ人はいません。お金に敬意をはらっていれば、できないことです。
『金運心得帖』のお話は以上です。たとえ一つでも共感をいただけましたら、うれしく思います。「お金がなくても幸せになれる」とは言いがたいとされる現代、お金に対する見識を真剣に学ばねばなりません。
続・金運心得帖
令和4年6月21日
昨日に続き、さらに④~⑧までの項目をお伝えします。
⑤収入の一部は社会への御礼に還元しましょう。
お金は社会が認めてくれるから入るのです。その社会に感謝をして、御礼をするのは当たり前です。いただくだけでは礼儀知らずとなりましょう。それは金額の問題ではありません、ほんの少しでもよいのです。自分の気持を社会に還元しましょう。実はこうした行為は、裕福な人ほど熱心です。だから、その熱心さが、さらに新たな金運を呼ぶのです。お金に困っている人は、少しでも手放すまいと思うばかりで、こうした発想がまったくありません。とても残念なことです。
⑥お金のそばでの腹立ちや悪口は慎みましょう。
私が育った頃は、神棚や仏壇、また竈のそばで兄弟げんかをしたり、腹を立てたり、人の悪口を言ってはいけないとしつけられました。それは神さまやご先祖さまにも聞こえるからです。同じことが、お金のそばでもいえるのです。お金は人と同じように、感情を持った生き物であることを知らねばなりません。だから、好き嫌いがあります。腹立ちや悪口に接すれば、その人から遠のきます。その人のそばには二度と来たくないと思うかも知れません。
⑦お金の出し入れには挨拶を忘れてはなりません。
私はお金を支払う時、心の中で、あるいはささやく程度の声で「行ってらっしゃい」と挨拶をします。また、お金が入った時は、同じように「お帰りなさい」と挨拶をします。それは、お金は人と同じように感情があるという考え方を忘れないためでもあります。挨拶の〈挨〉は心を開くという意味、〈拶〉はせまる(近づく)という意味です。つまり、心を開いて自分から近づかねば、挨拶にはなりません。人と人とのトラブルは、御礼やおわびの挨拶がないことから始まります。お金とトラブルをおこしてはなりません。
⑧敬意をはらわずに「カネ」と呼んではなりません。
必ず「お金」と呼びましょう。「カネ」という語感には、何かお金を卑下したような響きがあります。お金に敬意をはらっていない証拠です。敬意をはらわぬ人には、お金もまた敬意をはらいません。卑下したように呼び捨てにされれば、お金は「そんなに私を卑しいと思うのですか」と悲しみます。とても残念なことです。それでも「カネ」と呼ぶのでしょうか。
金運心得帖
令和4年6月20日
昨日は金運宝珠護摩があり、「金運心得帖」①~⑫項目のプリントを渡してご参詣の皆様に法話をしました。その内容を三回に分けてお伝えいたしましょう。
日本人はお金というとタブー視しますが、お金について知ることは、とても大切なことです。私は「お寺の経営がヘタだ!」と皆様から言われますが、お金そのものについての考えには、かなり自信があります。以下は、私がこれまでに書籍やセミナーで学んだり、自分で思案を重ねた結論ですが、ご参考になればうれしく存じます。
①人が欲する利益を与えねば、お金は入りません。
お金についての最大の誤りは、「人が損をすれば自分に利益がある」と思っていることです。ところが、人が欲する利益を与えねば、自分の利益も与えられません。つまり、与えねば与えられないことは、世の中の鉄則です。だから、与えずして得た利益は必ず返さねばなりません。ギャンブルや宝くじで得た利益も、人をだまして得た利益も同じです。一時的な利益に喜びはしても、必ず争いや不幸を呼びます。
②お金持ちを尊敬し、自分もその人を見習いましょう。
もう一つの誤りは、「お金持ちはみな汚い人だ」と思っていることです。お金持ちと呼ばれる方々は、世間が求める何かを与えた人です。それも、世間の人の何倍もの努力を重ねた人です。また、能力に加えて世間から認められる徳を持っている人です。極端な例ですが、たとえばスーパースターは人がうらやむほどの富があるでしょうが、それは世界中の人々にそれだけの夢や希望を与え、それが認められたからです。
③お金を大切にするほど、お金からも好かれます。
お金に好かれたかったら、お金を好きになり、お金を大切にすることです。好きにならなければ、決して好かれません。そんなことはあたり前だと思うかも知れませんが、では現在の一万円札の肖像は誰でしょうか。どんな服装をして、どんな表情をしているか、スグに浮かびますか。同じく五千円札、二千札、千円札はどうですか。さて、そんな程度でお金が好きだなどと思うようでは、お金の神さまに笑われますよ。
④お金は神さまからの預かりものと思いましょう。
この世のお金を、あの世まで持って行くことはできません。また遺産として残せば、自分の意志を離れて、子供たちが見苦しい相続争いをします。しかも、それを維持する能力と徳がなければ、いずれは消え失せます。つまり、お金は神さまからの一時的な預かりものだということです。『般若心経』が教えるように、人はこの世で所有するものは、実は何もないのです。お金を失うということは、何かの理由で神さまに〝返した〟に過ぎません。
続・運と不運の理由
令和3年10月8日
それでは、私が日頃から感じている、〈運と不運〉へのアドバイスをいたしましょう。アドバイスといっても、ごく当たり前の常識ばかりです。ところが、この常識が通らぬところに現代社会の病根があります。これでは、いくら名前を変えても、方位を変えても、開運グッズを求めても、絶対に開運することはありません。お若い方にはオッサンのたわごとと聞こえましょうが、これも老婆心とお心得を。
①目上や上司の前を素通りしてはなりません。
コンビニやスーパーの商品を1メートル以内で見ていても、お若い方が平気で素通りする現状は何なのでしょうか。せめて、会釈ぐらいはするのが日本人の常識です。「失礼します」とだけ声をかければ、相手は必ず半歩でも一歩でも下がってくれるのです。これを目上や上司の前でも、同じようにするのでしょうか。「失礼なヤツだ!」と思われること、間違いありません。ちょっとだけでも会釈をすれば、その結果は明白です。
②〈ら〉ぬき言葉には充分な注意を。
いずれは日本語として通用するのでしょうが、〈ら〉ぬき言葉はあまりいい気持ちにはなれません。「見られる」を「見れる」と、「着られる」を「着れる」と、「食べられる」を「食べれる」と、これが〈ら〉ぬき言葉です。これを小学校の教師から再教育すべきだと言ったら、よけいなお節介でしょうか。少なくとも公用の場でこんな発言をしては、目上や上司が目をしかめるはずです。
③「ホントですか」はやめましょう。
ついでにもう一つ。何かにつけて、「ホントですか」はやめましょう。これもよく聞かされる言葉です。どうして普通に、「そうですか」と言えないのでしょう。言われた相手にとっては、まるで自分がウソを言っているような印象さえ与えかねません。「ホントですか」と発言するたびに、その発言が疑いの波動となり、その波動が自分の〈運〉を損ねることを肝に銘じましょう。これ、ホントですよ(笑)。
④〈前略〉は失礼な禁句です。
最後に、手紙の大問題。公用文の冒頭に、「前略」は絶対の禁句とお心得を。これは「あなたには季節の挨拶などする気はありませんよ」と書いているのと同じことなのです。最低でも「前略ご免ください」と、あるいは「時下ご清祥のこととお慶び申し上げます」は必要です。欧米では「親愛なる〇〇様へ」「愛する〇〇へ」で通りますが、家族や友人、また恋人どおしでもないかぎり、日本社会の手紙にはそれなりのルールがあることを知らねば恥となり、罪となり、やがてはあの世へ往っても報われません。
言い出したらキリがありませんが、このへんにしておきましょう。小さなことをゴチャゴチャ言っているのではありません。大切で重要ななことばかりなのです。この程度の常識を心得るだけでも、開運することを私が保証します。
運と不運の理由
令和3年10月7日
銀座「クラブ由美」のママ・伊藤由美さんが『「運と不運」には理由があります』(ワニブックス)という本を出版しました。銀座の高級クラブなどまったく縁のない私ですが、「運と不運」は関心の高い分野なのでさっそく購入し、きわめてマジメに、しっかりと愛読しました。何しろ政界や財界の一流人を相手に、43年もの間この仕事を続けてきた方だけあって、書かれていることは一つ一つが鋭く、納得のいくことばかり。こういう人になってはいけないという33項目の中から、私にとって特に耳の痛かったお話をご紹介しましょう。
①爪が汚れている人
女性は男性のどこを見るのかとの問いに対し、顔や衣類はもちろんでしょうが、意外にも指や爪を見るという答えが返って来るようです。特に営業マンの方は注意せねばなりません。商品やカタログの説明をする時、爪が汚れているようではすべてが台なしです。仕事の〈運〉を逃すことにもなりかねません。私は毎日お護摩を修するためか、爪が汚れやすいので困っています。かなり短く切っていますが、うっかりすることがあります。
②四六時中スマホやネットを見ている人
現代人はスマホがなければ、生活はできても仕事はできません。当然ながら、メールやネットのお世話になります。しかし、人と会っていても片時もスマホを離さない人は、やはり相手によい印象を与えるはずがありません。お店に入って、注文したコーヒーや食事が運ばれて来てもおかまいなし。これはもう、依存症としか言いようがありません。こういう人は味も逃しますが、〈運〉も逃すはずです。文中には「使いこなしても振り回されるな」と、表記されています。
③言葉遣いに無頓着な人
伊東さんは特に気をつけるべき3つの言葉をあげています。「女性のことをオンナと言わない」「お金のことをカネと言わない」「相手のことをオマエと言わない」の3つです。昔の男性は女性をよく、「おい、オンナ!」と呼んで卑下しました。見栄と差別を強調したつもりかも知れませんが、現代には通用しません。お金を「カネ」と呼ぶ人は、お金の神さまから嫌われます。相手を「オマエ」と呼ぶ人は、高慢に過ぎて〈運〉を引き寄せられません。
④敬語を疎かにする人
これも気になります。お若い方には「媚びを売っているようでイヤだ」とか、「年功序列の崩壊した時代には不必要だ」と思っている方がいるようですが、まったくの間違いです。それに、敬語を使わないのではなく、使えない方が多いのには困ったものです。人間関係は友達づきあいではありません。敬語という〝品位〟がなければ、〈運〉も遠ざかります。お若い方は基本的な敬語だけは、しっかりと身につけましょう。
そのほか、「人の名前を忘れる人」「道具やモノを大事にしない人」「デスクの上が散らかっている人」など、チクリと刺さるようなお話がたくさんあるのですが、紙面が尽きました。興味のある方は、ぜひご愛読を。
占いの落とし穴
令和元年9月5日
昨日は清水次郎長が徳を積んだ後に死相が消え、運命を変えたお話をしました。
これはもちろん、徳を積むことの大切さを伝える象徴的なエピソードです。ところで、占いでは〈相〉という分野があり、人相のほかに手相・家相・地相・墓相・名相・印相などがあります。そこで、占い師の方はこれらを指摘して運の悪さを主張します。人相や手相はともかく、住んでいる家や土地が悪い、お墓の向きや造りが悪い、名前の画数が悪い、印鑑の文字が悪いといった言い方をします。そして、開運するためには、これらを正さねばならないと力説するのです。しかも、占い師の方が言うことは、とても〝当たる〟のです。だから、大方の人は「なるほど」と思ってしまうのです。
私は占いもしますので、このことを否定するつもりはありません。よく、家相や墓相の相談を受けたり、名づけを依頼されたりします。しかし、占いには深い落とし穴がありますので、そのことを申し上げましょう。とても大切なことなので、皆様にぜひ知っていただきたいのです。
たとえば、病気で顔色の悪い人がいたとしましょう。では、その人が病気になったのは、顔色が悪いからでしょうか。つまり。顔色が悪いことが病気そのものの原因なのでしょうか。
奇妙なお話ですね。本末転倒とはこのことです。顔色が悪いことは結果であって、原因ではありません。病気になって体調をくずし、その結果が顔色という〈相〉になって現れたわけですから、病気の原因はほかにあるわけです。生活習慣が悪いなら、それを正さねば根本的な治療にはなりません。占いで指摘することは、あくまでもその〈相〉なのです。つまり、これまでのあらゆる生き方が〈相〉となって現れるのです。占いはここを指摘するのですから、よく当たります。しかし、開運への根本的な手立てにはなりません。ここに占いの落とし穴があるのです。
次郎長は不徳を積んでいたがため、顔に死相が出ていたのです。しかし、若い二人の命を救って、徳を積んだゆえに死相が消えたのです。占いで指摘する〈相〉を変えることは、いわば〝見た目〟を変えることです。もちろん、見た目も大事なので、私は占いも重視しています。しかし、不運を根本的に変えることは、占いではできません。
不運を乗り越えるために徳を積むことを〈立命〉といいます。文字どおり、新しい命を立てるという意味です。運命や宿命と共に立命という言葉があることを、私は強く主張したいのです。
運命を変えた清水次郎長
令和元年9月4日
今日は清水次郎長のお話です。 皆様もご存知のとおり、次郎長は幕末から明治にかけての大親分ですが、決して生まれながらの任侠ではなかったのです。二十歳頃までは米屋の家業に精を出し、重い俵をかついで懸命に働いていました。
ある日のこと、店先に托鉢の僧が立ちました。次郎長はさっそく米を布施しましたが、その僧から「お前さんの顔には死相が出ている。あと三年の命じゃな。わしの観相は外れたことがないが、もし外れたらこの首を差し上げることを約束しよう」と言われました。次郎長はその僧がまんざらウソを言っているとも思えず、さんざんに悩みました。そして、「どうせ三年の命なら、やりたい放題したい放題に生きよう」と考え、女房も離縁して任侠の道へと踏み込みました。次郎長は持ち前の度胸でたちまち顔が売れましたが、今日死ぬか明日死ぬと気が気ではありません。
そして三年が過ぎました。次郎長は死ぬどころか、風邪ひとつ引かず、ますます元気です。「さてはあの坊さん、ウソを言いあがった」と思うのも当然です。そんなある日、とうとうその托鉢の僧と再会しました。次郎長はさっそく「約束どおり首をもらうぜ。覚悟しろ」と迫りましたが、その僧は「待ってくれ。そなたの顔をもう一度見せてくれ」と言うのです。そして次郎長の顔をまじまじと見つめるや、「これは不思議じゃ。死相がまったく消えている。お前さん、わしに会ってから人の命を救ったことはなかったか」と言うのでした。
実は次郎長、この僧と会ってから、心中しようとしていた若い男女の命を救ったのでした。しかも、男が使い込んでしまったという奉公先での三十両を代償し、商売を始める店までも面倒をみたのです。僧は「ああ、よいことをされたのう。お前さんは二人の命を救うと共に、自分の命も救ったのじゃ。死相が消えたばかりか、八十歳までは生きられるぞ。あいがたいことじゃ。ナンマンダブ、ナンマンダブ」と言いながら立ち去りました。
このお話はまさに、運命を決定するものは〈徳〉であるということの証明でもあります。人生を決定するのは宿業ですが、徳が宿業を変え、運命を変えるのです。徳を積むことの大切さを伝えるお話として、私はとても大事にしています。