令和5年5月4日
人は奈良や京都に、仏さまを見たいといって出かけます。そして今や、奈良も京都も日本人はもちろん、世界中の人々であふれています。また国立博物館で「密教美術展」や「〇〇寺名宝展」があると、人は遠くから時間をかけ、交通費を払い、二時間も並んで入場します。そして、混雑した中で目ざす仏さまを拝観し、高価で分厚く、重い図録まで購入します。
これはなぜなのか、皆さん、わかりますか。今月の掲示伝道はこのことを書きました(写真)。
そもそも、仏さまはいったい、どこにいるのかといいますと、実は私たちの心の中にいるのです。つまり、お釈迦さまが悟りを開かれたのは、もともと仏さまが心の中にいたからだという意味です。お釈迦さまが仏というものを新しく考え出したわけではないし、発明したわけでもありません。もともとご自分の心の中にいた仏さまというものに目覚めたわけです。だから、仏さまのことを〈覚者〉ともいうのです。
そうすると、私たちの心の中にも仏さまがいるわけです。「一切衆生悉有仏性」などといいます。すべての人は仏になれる資質が備わっているという意味です。残念ながら、私たちには煩悩という雲が多く、光り輝くその仏性がなかなか見えては来ませんが、仏像に心引かれるのは、実はその仏性があるからなのです。
仏師がノミをふるって仏像を彫り出す様子を、皆さん、想像してみてください。仏師の心に仏さまがいなければ、仏像など彫れるわけがありません。そうでなければ、仏さまというものを新しく考え出したことになってしまいます。エジソンのように発明したことになってしまいます。
仏像ももともとは木材に過ぎません。木材という塊りです。しかし、仏師の心の中の仏さまが活動するから、あのような立派な仏像になるのです。もちろん、その仏像も仏さまであることに違いはありません。だから、心の中の仏さまが、同じ仏さまである仏像を求めるのです。類は友を呼ぶというではありませんか。
世界中の人が奈良や京都に集まるのも、博物館の催しに集まるのも、その理由は同じです。そして、皆さんの心にも仏さまがいることを忘れてはなりません。腹を立てたり、悪口をいったりはしても、それは月にかかった雲なのです。その雲のかなたに、光り輝く仏さまがいることを忘れてはなりません。「雲晴れて 後の光と思うなよ もとより空にありあけの月」という無窓国師(鎌倉時代の禅僧)の道歌をご紹介して、今日の法話といたします。