山路天酬法話ブログ
事はじめ
令和2年2月9日
私の郷里(栃木県芳賀郡の農村)では二月八日を「事はじめ」といい、奇妙な風習がありました。この日は厄病神が村々を訪ね歩くとされ、家では竹ザオで目籠を屋根上に揚げていました。目籠というのは編み目(まなこ)の荒い竹籠のことで、これを「大まなこ」と呼んでいました。厄病神は「一つ目小僧」であるとされ、それに対抗するためであったようです。
そして、この日の朝食には必ずそばがきを食べました。そばがきの粘着力には呪力があるとされていたからです。父は仕事に行く前に、私は学校へ行く前に、祖母が作ったそばがきを食べたものでした。
また、この日は針供養の日とされ、一切の針仕事を休んだものでした。一年使った針を豆腐にさして川に流したり、神社に納めました。昔の和裁学校ではこの風習があったらしく、これで裁縫の上達を願ったようです。そして、ご馳走を持ちよって会食したとも聞きました。針に対する畏敬の思いがあったのでしょう。
現代人はこんな風習を笑うでしょうか。もちろん、こんな風習は昔の語りぐさで、もの笑いかも知れません。しかし、自然に対し、また道具に対し、謙虚であったという一語につきましょう。そして、生きることは何かの世話になるものであるという、人としての理念があったのです。子供の頃の風習も、いま考えると、なるほどと思うものです。
品格について
令和2年2月7日
かつて藤原正彦氏の『国家の品格』、坂東眞理子氏の『女性の品格』を始めとして、〈品格〉という言葉が流行しました。
品格とは何でありましょうか。もちろん、今日・明日から品格を身に着けようとしたところで、叶うことではありません。その人の教養・思考・経験・生活・行動など、そのすべてが融合して自然ににじみ出るのが品格でありましょう。
たとえば、そこに紙くずが落ちていたとして、それを気にもしないか、気にはするけれども何もしないか、すぐに拾ってくず籠に入れるか、そんなところにも現れましょう。仏教では「下座の精進」といいまして、自分の立場や身分をいかに下げられるかを大事な修行としています。仏門に入る得度式は、礼拝の連続です。仏に向かって両膝・両肘・額を床に着ける〈五体投地〉をくり返します。つまり、高い品格は、自分を下げることから生じるという教えを実践するのです。下げることから心が清まり、魂が輝き、その品格が高まるのです。この逆説がわかりますでしょうか。
「実るほど頭を垂れる稲穂かな」というではありませんか。稲は実るほどにその穂を下げるものです。人もまた、その品格が高いほど謙虚にふるまうものです。逆に品格の疑わしい人ほど尊大で、増上慢な態度をふるまうはずです。覚えはございませんか。
成長する会社の経営者は自らトイレ掃除をしたり、社員と同じ立場で対話をするはずです。社員もまたそんな社長を信頼し、仕事に励み、その会社が成長していきます。戦後日本を動かした偉大な経営者の方々を見れば、それは十分に理解できましょう。女性の品格も、国家の品格も、すべては謙虚でなければ高まりません。
子供部屋の方位
令和2年2月6日
昨日の続きでありますが、子供部屋にも九星気学を生かすことができます。
まず、二度三度と声をかけても起きてこない朝寝坊の子供には、東枕になるよう工夫することです。東(震宮)は、朝日が昇る活動の方位です。一日の始まりとして東枕にすると、子供が(もちろん大人でも)意外に早く起きる事実を私は体験しています。
また、特に長男には家の中心から見て、東または東北の部屋を与えるとよいでしょう。東は長男の座所ですし、東北(艮宮)は相続の象意があります。長男らしい活動や相続の〈気〉を受けることによって、家庭内の人間関係もうまくいくことが多いのです。
次に女の子は、東南または西の部屋をおすすめします。東南(巽宮)は縁談の象意があり、西(兌宮)は恋愛の象意があるからです。なかなか縁遠い女性が、北や東の部屋にいる例を私はたくさん知っています。ちょっただけ秘伝をお話しますが、結婚は特に東南が大切です。恋愛をしても、縁が熟して結ばれなければ意味がありません。だから、九星気学で結婚運を見る場合、西の兌宮よりも東南の巽宮を中心に判断します。また、巽宮を定位とする四緑木星の位置で判断するのです。
このようなお話はたくさんありますが、これ以上はあさか大師にお越しください。私はほとんど寺にいますので、いくらでもお話しますよ。
北枕のすすめ
令和2年2月5日
眠れないという方に対して、私は北枕をすすめています。
なぜなら、北は九星気学で〈暗闇〉を意味し、眠りに適するからです。死者を北枕にするのも、同じことです。縁起が悪いと思うかも知れませんが、そんなことはありません。眠る時は明かりを消すでしょうから、とても理にかなっているのです。北枕を嫌うことこそ、まったくの迷信です。
私は睡眠時間が大変に短く、友人からよく「いったい、いつ寝ているんだ」と言われてきました。だいたい4時間ほどでしょうか。それは眠りの質が高いからで、これも北枕のおかげと思っています。
それから、眠れない方は心と体のバランスが悪いはずです。つまり、精神的にはクタクタになっても、体は意外に疲れていません。だから、ウォーキングや水泳などのスポーツをすると、よく眠れるようになります。
このことを考えますと、精神的な悩みに対しては身体的に対応した方がよいということがいえましょう。私はよく、山歩きをすすめています。歩くことで体は疲れますが、山林の緑や花の色、せせらぎの音や鳥の声でとても癒されます。気持がリフレッシュして、活力がよみがえります。これも、その方にとってのよい方位があるので、また九星気学が活躍します。
私は占い師ではありませんが、いろいろなことに九星気学を生かしています。皆様もぜひ、北枕を試してみてください。よく眠れますよ。
来世への予習
令和2年2月4日
大正時代のことです。長崎市の名刹、曹洞宗の皓臺寺に霖玉仙という和尚がいらっしゃいました。
和尚は七十歳にいたって、英語の勉強を志しました。それを見た弟子たちが驚いたのも無理はありません。みな、あきれかえってしまいました。中にはずけずけと、「そんなお年では無理ですよ」と言う者までおりました。どうせ、すぐに挫折すると思ったのでしょう。ところが和尚は、
「よう知っておるよ。だがな、いま一つでも英単語を覚えておけば下地ができるはずだ。来世に生まれ変ってまた勉強する時に、きっと役に立つと思ってな」
と、答えました。
私はこのお話を、曹洞宗宗務本庁刊の著書で知りました。とてもよい逸話だと、感動しました。「一生勉強」という言葉そのものです。無理をせずとも、来世への予習と考えれば、それもよいではありませんか。『言志四録』(江戸時代の儒学者・佐藤一斎の著書)に記載される、「老いて学べば死して朽ちず」のお手本のようなものです。
今日、認知症予防の〝脳トレ〟が流行っています。その種の単行本や雑誌の付録もたくさんあります。それらの効用についても、よくわかります。しかし大切なことは、何かを学ぼうとする前向きの意欲でありましょう。使わなければ衰えるのが人の体であり、人の脳です。でも、使おうとする意欲がなくては始まりません。
来世への予習をするほどの人なら、生れ変わることも楽しみになりましょう。私も多いに励まされました。
豆まきの文化
令和2年2月3日
今日は節分で、各地の社寺で豆まきが行われました。
豆が「魔を滅する」から、あるいは「魔の眼を滅する」から、それが〝豆まき〟なのでしょう。また、豆(大豆)には豊富な栄養があり、健康食品としてもすぐれているからなのでしょう。特に炒った大豆は、火を通していますから人にも食べられます。できれば発酵して納豆にすればよいのですが、残念ながら豆まきには使えません。
幼い頃、父と二人だけで地元の神社で誰もいない中、豆まきをした記憶があります。父があまりに大きな声で「鬼は外!、福は内!」と叫ぶので、私ははずかしくなり、声も出せませんでした。それでも父が、「お前も声を出せ!」と言うので、何とか頼りない声を出しました。
今日、人はこんなことをどう思っているのでしょうか。もちろん、豆まきをする人は今でもたくさんいます。コンビニやスーパーで節分の豆が売り出されれば、何となく気になります。中には「〇〇厄除よけ大師祈願」とまで、宣伝している商品まであります。有名寺院ではゲストのタレントさんの顔を見たくて、その豆まき行事に群参します。恵方巻ももちろん売れています。
これはこの国の文化なのです。また、この国に宿った民族の血なのです。そして、人というものの不変の願望なのです。
魔を滅するから「豆まき」だといえば、幼稚な語呂あわせと笑うかも知れません。でも、人は誰でも魔を恐れ、少しでも逃れたいと望んでいるのです。そうでなければ、厄よけの祈願にこんなに人が集まるはずがありません。魔(悪いもの)を除きたいという気持は、いつの世でも変わりません。
宗派を超えて
令和2年2月2日
今日も昨日と同じく、行く始めの回向行事をいたしました。九日(日)が「開運星祭り大護摩供」の行事なので、集まった僧侶の方とその準備に入りました。左端に星祭り曼荼羅の一部が見えると思います(写真)。明日から前行に入り、七日後の当日に結願のお護摩を焚いてお札を祈念します。

この頃は真言宗のみならず、天台宗・浄土真宗・神官の方々などが集まって、とても楽しくなりました。各宗のニュースも聞けますので、私は居ながらにしていろいろな情報を得ていることになります。お大師さまの真言密教は、宗派などにとらわれることなく、どんな教えでも受け入れる順応性があります。
もちろん、教義をたどれば矛盾もありましょう。しかし、そんなことで争いを起こしているようでは、宗教界に平安はありません。社会に対しても、申し訳がたちません。今日、真言宗と天台宗が高野山で合同法要をしたり、ヨーロッパの聖堂で声明(経典や真言による声楽)の公演をしたりするのは、とても喜ばしいことです。
今後も宗派を超えて、いろいろな方々とお会いできることが、私のひそかな願いです。一つだけ悩んでいることは、真言密教は仏具代が高価であることです。得度をして仏門に入り、次に加行という修行を成満した後には金属製の仏具が必要になります。特にお若い方は、その工面が大変です。いい情報がございましたら、お教えてください。
恵方巻の由来
令和2年2月1日
節分が近づいて、スーパーもコンビニも恵方巻の販売合戦が盛んです。今日は月始めの回向行事がありましたので、終って恵方巻の由来についてお話をしました。関東にもすっかり定着し、皆様にも関心があるらしく、熱心に聞いていただきました(写真)。

今年の恵方(暦にある歳徳神の位置)は庚(西南西)の方位です。江戸時代はその歳徳神の方位に向かって神棚や祭壇を設け、供物を献じて福徳を願いました。五穀豊穣や商売繁昌を、礼を尽くして祈念したわけです。当然ですが、この時点では歳徳神と恵方巻に、何の関連もありません。
ところが明治から大正に入り、大阪の花街では節分の芸遊びをしながら、太巻きを食べる習慣が生れました。大きな太巻きなら、鬼を退治をして厄も祓えそうに思ったのでしょう。しかし、この時点でもまだ恵方巻という名は生まれません。
今日の恵方巻は1998年、セブンイレブンによって販売が開始されました。発祥は大阪でも東京でもなく、広島でした。広島市内のセブンイレブン巡回アドバイザーだった野田静真氏は加盟店のオーナー会議で、大阪では節分に太巻きを食べる習慣があることを聞いたのです。この野田氏こそは、コンビニでおでんやあおせち料理を販売するようになった仕掛人だそうで、強いひらめきを覚え、「仕掛けてみよう」と言い出しました。しかし、単なる太巻きではインパクトがありません。歳徳神の恵方に向かって、「まるまる一本を、声も出さず、一気に食べれば幸運が舞い込む」と意味づけしたのです。これが大当たり。今やコンビニやスーパーばかりではなく、デパートも寿司店も競争に明け暮れています。もはや単なる商品というより、文化とさえ呼べるレベルでしょう。
私は恵方巻そのものより、歳徳神という幸運の神さまを忘れないためにも、この文化を評価したいと思います。ちなみに、恵方巻は七種の具材を巻き上げますが、こらはもちろん、七福神に由来しています。何もかもウマくやりましたね。
墓前での甘酒接待
令和2年1月31日
私の郷里(栃木県芳賀郡の農村)にはめずらしい風習がありましたが、そのひとつをお話しましょう。
記憶はあいまいですが、あれは冬至の頃であったのか今頃であったのか、とにかく寒い時期に墓前での甘酒接待がありました。墓前といっても今のような霊園ではなく、昔の部落墓地でした。そこで大きな鉄なべで甘酒をつくり、道行く人に声をかけては甘酒をふるまっていました。道行く人も声をかけられると、ことわってはいけない礼儀があったような気がします。当時は自動車で通行する方など、ほとんどありません。徒歩や自転車の通行人が代わる代わる立ち寄り、その甘酒をいただいては去って行きました。
私はその甘酒が楽しみで、自分から進んで手伝いをしました。しかし、その意味を知ることもなく何十年も過ぎ去り、急に思い出したのもまた奇妙です。今は甘酒がブームらしく、スーパーにもたくさん並んでいます。それを見て連鎖反応があったのでしょう。
その由来を考えますと、どなたか、寺の住職でも提案したのかも知れません。要するに先祖に代って布施をなし、功徳を積むということなのです。何しろ寒い毎日で、温かい甘酒はありがたいものでした。昔はこんなことを通じて、仏教が民間に伝えられていたのです。しかも、何の不自然さもなく農村の風習になっていました。このようなお話はたくさんあるのですが、子供のころの記憶をたどると、なるほどと思うことがあって驚きます。民俗学という学問が生じるのも納得できます。
遠い日の記憶を思い出し、何やら楽しく、うれしい一日でした。さらに年齢を重ねれば、どんな記憶として甦るのでしょうか。
屈辱をバネに
令和2年1月30日
一昨日の塙保己一のお話には、さらに続きがあります。
ある雪の日、彼は平河天満宮(現・東京都千代田区)へ参詣しました。ところが参詣を終えての帰りぎわ、あいにくの雪のためか下駄の鼻緒が切れてしまいました。
境内に前川という版木商(今の出版業社)があり、人声を感じた保己一は「ヒモをいただけませんか」と頼みました。盲目の彼を見て、からかってやりたかったのでしょう。店の者が無言でヒモを放り投げたのです。彼は手さぐりでそのヒモを探しあて、鼻緒を仕立てようとしました。もちろん盲目の彼が、うまく仕立てられるはずがありません。店の者たちは手をたたいて笑いました。彼はその屈辱に耐えきれず、素足で店を飛び出しました。
ところが後年、幕府の推挙を得て『群書類聚』がいよいよ出版されるに及び、保己一は何とその前川を版元に選びました。何も知らない前川の主人がお礼を述べると、保己一は「私が今日あるは、数年前の雪の日に受けた屈辱のおかげです。むしろ私の方こそお礼を言いたいのです」と語りました。
天才とは、なるべくして天才になるのでしょう。屈辱の恨みを超えて相手を許し、むしろその屈辱を努力のバネにしたのです。誰しも、忘れがたい屈辱はあるものです。しかし、その恨みを報いるのに恨みをもってするなら、その恨みはいつになっても消えません。今度は相手が、さらなる恨みをいだくからです。保己一は仏典の教えを、深く体得していたのです。

