令和元年12月22日
お正月がいよいよ近づきました。あさか大師では今日、初詣の準備としてお護摩札の浄書をしました。私がお名前を毛筆で書き、お手伝いの方々にはお願いごとの印、袋や箱に入れの作務をしていただきました(写真)。
私はお寺には生れませんでしたが、書道には親しみましたので、僧侶になっても毛筆で苦労をしたことがありません。でも、最近の若い僧侶の方は、大学で梵字(仏教の文字)は習っても、書道(特に楷書や行書)の講義がありません。お葬式の戒名や法事のお塔婆もパソコンで済ませる時代です。しかし、私はやはり僧侶は読経や法話と同様、書道の修練に励まねばならないと思っています。なぜなら、読経や法話がどんなに上手でも、毛筆がまったくの下手では僧侶としての信頼を失うからです。
何も達人になる必要はありません。要は〝慣れ〟に尽きましょう。下手は下手なりに、慣れれば何とかなるのです。少しでも毛筆に慣れることなのです。僧侶の書は、書家のそれとは違います。しかし、書家にはない独特の魅力があることも事実です。
昔の僧侶は大学へなど行きませんから、師僧の身の回りの世話をしながら小僧教育を受けました。そして、少しでも時間があれば、師僧の書を習ったものでした。また、かつての旧制高野山中学(現・高野山高校)の新入生には、お大師さまの書の手本が渡され、それを一年間くり返し練習することが必修でした。単に宗祖の著作を読むだけではなく、直接にその書に触れることにより、その境涯を学ぶことができるからです。
私は十六歳の折、書道教科書で初めてお大師さまの書に接しました。そして、それを切り抜き、お守りのようにして持ち歩きました。今にして思えば汗顔の至りですが、こんなお笑いごとでもお大師さまとのご縁に役立ったかも知れません。
お話はもどりますが、特に若い青年僧の皆様には、ぜひ書道に親しみ、少しでも毛筆に慣れていただきたいと思います。もう一度申しますが、下手は下手なりに、慣れれば何とかなるのです。まずは慣れることです。