令和4年8月15日
今日は終戦記念日です。私は戦後の生まれですが、無謀極まりないあの太平洋戦争のことは、父からよく聞かされました。また私が子供の頃の郷里には、なお防空壕や弾薬などの残骸が散見されたものでした。
私の父はいわゆる〈インパール作戦〉から、奇跡的な生還を遂げて帰国しました。私にもし強運というほどのものがあるならば、それは父の強運を受け継いだ以外に、何ものでもありません。父はマラリア感染と銃弾の負傷によって歩くこともできませんでしたが、戦友たちの死体の中を両臂で這いながら、数日をかけて必死の思いで師団にたどり着きました。飢餓状態の中で、一体何を口に入れたのかは想像を絶するものがあります。
インパール作戦とは昭和19年3月より7月まで、インド東北部インパールを攻略するため、日本軍が立案した「史上最悪の作戦」です。2000メートル級のけわしい山岳地帯を転戦する過酷さに加え、重い装備、大量の雨、マラリヤや赤痢などの蔓延、そして何より食料もないまま、日本兵のほとんどが死傷しました。その死者は16万人に及び、その戦場はまさに「白骨街道」とまで呼ばれました。
このインパール作戦がどのように立案され、遂行されたのかについては、当時の資料、生還した兵士や白骨街道を目撃した現地人の証言をもとに、〈NHKスペシャル〉の取材班がまとめた『戦慄の記録・インパール』(岩波書店)に記載されています。これ以前にもインパール作戦を放映した番組はありましたが、父は「こんなものではなかったぞ」と語っていました。
父はマラリアに感染した体を震わせながら、浦賀(横須賀市)に帰国しました。夕暮れ時だったそうです。ところが、日本の敗戦を知る子供たちから、「兵隊さんがだらしがないから負けたんだ!」と石を投げられたそうで、これを語る時の父は、さすがに目に涙を浮かべていたものでした。生前の最後に、私はその浦賀に父を案内したことがありました。私が父に果たし得た、数少ない孝行であったかも知れません。
祖父は父が戦死したものと当然のように思い、多額の供養料を菩提寺に納めました。出兵してより5年後に、家族の前に現われた父の姿を見た驚きは、いかばかりであったのでしょうか。77年前、これが日本の姿だったのです。今日ばかりは、父が好きだった日本酒を位牌に供えました。