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信仰
令和2年12月2日
私はかなりのお人好しなので、人のために出来ることは努力を惜しまずに生きて来ました。だから、だまされたり裏切られたりした経験も何度か味わいました。しかし、自分が人をだましたり裏切ったりするよりはいいだろうと、自分なりに納得したのです。それに、このような経験に縁のない人がいるだろうかと考え、それによってもまた納得したのです。
ところが、いつ頃からか人というものは悪いことをするもの、悪いことをせずには生きられないものという考えに傾いたことも事実でした。それは、人はみな〝いい人〟だと信じ込んでいると、自分以外の考えを想定する能力に欠けてしまうことがわかったからです。この二つの矛盾に、私は長く苦しみました。
「すべての人が泥棒だ」と思えば、そのように見えるのです。「すべての人がウソをつく」と思えば、そのように見えるのです。政治家も経営者も、医者も弁護士も、警察官も教員も、主婦も子供も、僧侶でさえそのように見えるのです。本当にそうなのです。ただし、そういう思いを続ける自分に苦しむことは覚悟せねばなりません。
この点を、仏教はどのようにとらえるのでしょうか。浄土真宗はキリスト教と同様、徹底した性悪説に立っています。人はみな業が深く、罪を犯し、そのままにしておくと堕落する。だから、信仰が必要だと考えるのです。
しかし、仏教は総じて自分の罪障に気づいて信仰に目覚めれば、本来の仏になれると説くのです。だから、「衆生本来仏なり」というのです。仏教は〈性悪的性善説〉であると、私は考えています。
人を信じてはなりません。しかし、人を慈しまねばなりません。これが信仰というものです。そうですよね、皆さん。