令和2年7月25日
私の母は長い闘病生活の後、三十三歳の若さでこの世を去りました。私が九歳の時です。
その日の朝、私は父から学校を休むように言われ、その意味もわからないまま、言いつけに従いました。母の枕もとでは、家族も母の親も何度も声をかけましたが、返答はありませんでした。そして、母がいよいよその臨終を迎えた時、大人たちはそれこそ天地が轟くばかりに慟哭しました。私は大人が泣くという姿を、その時はじめて目にしたのです。あまりの驚きと怖さにおののき、押し入れの中にもぐり込んで打ち震えてしまいました。
葬儀のさ中、祖母がまた慟哭を発し、読経していた僧侶までが驚いていたことを、今でもよく覚えています。その頃の農村では、もちろん自宅で葬儀を行いました。部落の人たちも分担して手伝い、その日のうちに土葬しました。葬儀社が入ることなどあり得ません。その部落の人たちまでが、祖母の慟哭につられていっしょに涙を流したものでした。
それから十五年後、今度は二十七歳の兄を亡くしました。兄の方は事故死で、これまた葬儀の折にはその友人たちが慟哭しました。つまり、若くして天命を終えた二人の肉親を、私もまた若くして見送ったのでした。その頃の日本人は、よく泣きました。今日のように通夜や葬儀の日でも、笑顔を見せるなどということがあるはずはありません。
母の死から六十年近くがたちました。その間、祖父母も父も亡くなりました。私は発心して僧侶となりましたが、先に旅立った二人の肉親こそは、仏縁に導いていただいた菩薩のように思えてなりません。なぜなら、死を知らなければ、また死がどのようなものであるかを知らなければ、私は人生の無常を知り、生きることへの意欲を持つことが出来なかったからです。先に死をもって知らしめてくださった肉親こそは、何よりも尊い人生の菩薩であったのです。そして流したその涙こそは、菩薩の瓔珞にも等しい至宝でありました。
だから、子供さんやお孫さんには、肉親の死というものを見せることが大切です。葬儀によって肉親との別れを経験させることが大切です。それによって人はいずれ死を迎えるという事実を知り、死者にとっては子供さんやお孫さんの声を聞き、生涯のすべてを納得するからです。たとえ肉親の間に相尅の関係があったとしても、それによってすべては虚空へと化すからです。僧侶が唱える読経も、新しい旅の門出を祈ることにほかなりません。