令和2年6月18日
私たちは数の単位として、「一・十・百・千・万・億・兆」までしか使いません。しかも〈億〉や〈兆〉にいたっては、まず普通の生活で用いることはほとんどありません。一流会社の経理や国家予算ならともかく、私たちの〝普通預金〟にはまるで「夢の世界」です。
ところが、その夢の世界がさらに続くことをご存知でしょうか。すなわち、数の単位を最後まで記しますと、「一・十・百・千・万・億・兆・京・垓・杼・穣・溝・澗・正・載・極・恒河沙・阿僧祇・那由他・不可思議・無量・大数」となります。そして、この中で〈恒河沙〉以下は経典に出でいる仏教用語であることもお伝えしておきましょう。つまり、数の単位を考案した中国人は、こんなとてつもない数字を仏教から学んだということになります。
〈恒河沙〉とはガンジス河の砂の数ほどという意味、〈阿僧祇〉は数え切れないほどという意味、〈那由他〉はとてつもなく大きいという意味、〈不可思議〉は考えてもわからない遠い境界という意味、〈無量〉は阿弥陀さまのようにはてしない境界という意味、最後の〈大数〉は〈無量〉のさらに上があるならばというほどの意味です。いやはや「夢のまた夢」で、仏教の壮大な世界観にため息が出るのではないでしょうか。
〈夢〉といえば、織田信長が好きであった『敦盛』の一節は「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。ひとたび生を受け、滅せぬもののあるべきか」でした。信長は僧侶や寺院は弾圧しましたが、仏教のことはよく勉強しています。この時代は五十年も生きれば長命で、生まれてすぐに亡くなる人すら多かったのです。平均寿命は四十歳にも届かぬ三十代であったはずです。事実、信長は四十九歳で、あの本能寺で自決しました。
この〈下天〉もまた仏教用語です。壮大な宇宙の中に〈天界〉があり、その天界の一番下という意味です。その下天に住む〈天人〉に比べても、人間の寿命などは一瞬に過ぎません。つまり人間にとっての五十年は、天人からすれば一瞬なのです。だから、夢だと言っています。これを逆に表現したのが浦島伝説です。若い浦島太郎は竜宮城で七日間を楽しみましたが、戻って来たら何百年も生きた老人になってしまいました。時間の尺度がまったく違うからです。
仏教は壮大な宇宙や無限の数字を示すことによって、人間が謙虚になることを教えているのです。こうした夢のような世界を示して、傲慢におちいらぬよう戒めているのです。いま、こんなお話をしている私自身すら、まるで夢をみているような気がします。