無常のこの世をおもしろく

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人生

令和2年4月24日

 

前回と前々回、人生の晩年における二つの対照的な生き方を紹介しました。そこで今回は、私の考え方や生き方についてのお話をしましょう。

今から四年前、私は長らく勤務した寺を退職して〈隠遁いんとん生活〉を志しました。しかし、私が考えていた隠遁とは、いわゆる〝世捨人よすてびと〟になるという意味ではありません。仏を供養して独り暮らしをしつつも、訪ね来る方々との対話を楽しみ、困りごとの相談にも応じ、後進の指導にも尽くそうとしたのです。そして近隣を散策し、旬の食材で料理を作り、気の知れた仲間とはさかづきを交わしたいと考えたのです。そして無常のままに、自分がいつ消えてもよいほどの覚悟は持ちたいと考えていたのでした。

そして今、私はほぼ考えていた生活を実現しています。全国からお慕いくださる僧尼が訪れて来ます。老若をとわず、多くのご信徒にも恵まれています。毎日、祈祷や回向の行法を修し、古今の書籍に親しみ、こうしてブログも書いています。さびしさを感じたことなど、一度もありません。孤独な生活が、逆に人との交友に深みを増すことも覚えました。これは確かなことです。

以前、独りになって考えることの大切さをお話しました。なぜなら、人が生きるということは、それ自体が孤独であるからです。人は生まれる時も、死ぬ時も独りです。生きることとは、独りで死にくことへの準備でもあるのです。臨終のその時、皆様はその孤独に耐えられるでしょうか。どんな財産も、どんな名誉も、ここでは何の役にも立ちません。だから、私は孤独であることを自覚し、人生の無常を知ることの大切さを力説するのです。

だからといって、孤独は〝苦行くぎょう〟ではありません。それは限りないおもむきと、限りない楽しみに満ちたものです。私の生活も厭世観えんせいかんおちいることなど、決してありません。もう一度お話しますが、孤独を自覚してこそ人生の味わいは、逆に深まるのです。自然の景観に親しみ、家族や友人を大切にし、生きることの喜びを知るはずです。そして、無常のこの世をおもしろく過ごすことができましょう。

無常とは前向きに生きるための智恵なのです。前向きに生きるパワーなのです。静かに過ごそうが、プラチナのように輝こうが、それはいずれでもよいのです。肝心なことは人生の無常を知り、生きることの味わいを深めることです。この命すら、明日はわかりませんから。

山路天酬密教私塾

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