「足ることを知る」の本当の意味
令和6年5月31日
京都の龍安寺に変ったつくばいがあります。「吾唯知足(吾れ唯だ足ることを知る)」の四文字が、〈口〉の字を中心に右回りに配置されたユニークな逸品ですが、ご覧になった方も多いと思います(写真)。
ところで、「足ることを知る」とはどういう意味なのでしょうか。一般には「欲をかかずに、与えられたもので満足しなさい」といった教訓として知られています。〈小欲知足〉などといいますよね。いわゆる清貧の思想です。
しかし私は、どうも腑に落ちません。仏教はそんな程度の教えとは思えないからです。お大師さまはズバリ、「眼あきらかなれば、途にふれてみな宝なり」とおっしゃっています。つまり、しっかりと目を開ければ、いたるところに宝があるということなのです。小欲どころではありません。
私は窮地におちいった時、この言葉にどれほど励まされてきたことでしょうか。活路は必ずあるのです。乗り越えられない苦しみを、自分が背負うはずはないと信じることです。ただ、気持ちが落ち込んだり、ヤケをおこしていると、その足元の宝、つまり窮地を乗り越えるヒントが見えません。
足元をしっかりと見ましょう。宝ともいえるヒントが必ずあります。その宝を見つけ出した時、人は足ることを知るのです。思い浮かんだ人がいたら連絡しましょう。故郷に帰って墓参をしてみましょう。久しぶりに書店をのぞいてみましょう。眼を開けば、そこに宝があるのです。
続・偉大な発想は何から生まれるのか
令和6年5月27日
18世紀のフランスに、ジャン・ジャック・ルソーという偉大な思想家がおりました(写真)。私はたまたま誕生月日が同じという奇遇も手伝ってか、若い頃からこの思想家に興味をいだき、その著書も愛読しました。ちなみに、童謡の『むすんでひらいて』はルソーの作曲です。歌詞(作詞者不明)は「もめごとがあった時は、互いに手をゆるめよう」というのが本当の意味です。
ルソーは著書の中でこんなことを述べています。
「歩くということは、私を生き生きとさせ、思索を活性化させるものがある。じっとしていると、私はほとんど何も考えることができない。私の精神を動かすためには、私は動いていなければならないのだ。田園の眺め、心地よい景色、大気、それらすべてが私の魂を開放し、思想をいっそう大胆に導く。私の心は気に入るものを統合し、一体化し、美しい映像に囲まれ、甘美な感情に酔いしれる」(『告白』一部中略)。
およそ散歩という日常の行為を、これほど知的に昇華させた人はいないと思います。ルソーは孤独でありましたが、孤独とさびしさは異なるものです。そして、人はその本質が孤独であることも知らねばなりません。孤独を自覚してこそ、人は自分に立ち返り、求める幸福から与えられた幸福を知ることができるのです。さびしいと思うのは、あれがあればこれがあればと、幸福を外に求めるからです。
皆様の近辺にも、心を癒せる場所が必ずあるはずです。本来の自分にもどれる時間を、ぜひ作ってください。太陽の光は幸せホルモンとなり、自然の草木は絵画となり、鳥のさえずりは音楽となるのです。
偉大な発想は何から生まれるのか
令和6年5月26日
あさか大師から新河岸川に沿って遊歩道を1キロほど東南に進むと、「わくわく田島緑地」に出ます(写真)。美しい自然に恵まれ、散歩には絶好のコースとなります。私は毎日、運動靴をはいてここを散歩するのが日課になりました。
また、当所は新河岸川が荒川に合流する要所でもあり、池波正太郎著『鬼平犯科帳』の名作「大川の隠居」で〈川越船頭〉が暗躍する舞台でもあります。私はことのほか鬼平ファンでありますから、時が変わった240年後の景観を、ひそかに楽しんでいることになりましょう。
散歩をして10分ほどすると体温が上がり、血行が促進し、意識はいつの間にか日常から離脱します。足を使って歩くことにより、眼前の景観が脳を刺激して時空を超えるからです。知的世界が開け、新しい発想が生まれることは間違いありません。
私はお釈迦さまやお大師さまは、偉大な瞑想の行者であると共に、〈旅の行者〉であったと思っています。お釈迦さまは生涯にわたって、インド各地の伝道布教を続けました。お大師さまは若き日に奈良や四国を練行し、後には京都と高野山を巡錫しました。偉大な発想はこうした旅の途中で生まれたのです。
お遍路(巡礼)をして病気が治ったり、新しい生き方に目覚めるのは、足を使って歩くことにより、身も心も変わるからです。足は第二の心臓です。そして全身の縮図です。足の裏をもむ健康法があるではありませんか。
散歩なら費用はかかりません。トレーナーも不要です。年齢も問いません。皆様もぜひ、一日30分ほどの散歩を実行してください。今までとは別の人生が開けます。考えがまとまり、アイデアがひらめきます。もしかしたら、「人間は考える足?である」かも知れません(笑)。
最勝の陀羅尼とは
令和6年5月23日
真言密教では仏頂尊勝陀羅尼・宝篋印陀羅尼・阿弥陀陀羅尼を「三陀羅尼」として尊重し、毎日の勤行でお唱えします。この中で、三番目の阿弥陀さまに関しては皆様にもよく知られ、お寺の本尊としてもお祀りされています。ところが仏頂尊となると、どういう仏さまなのかよくわかりません。またお寺で宝篋印塔という石塔をよく見かけるものの、説明されることはほとんどありません(下写真)。
そこで私は、このたび『尊勝仏頂法・宝篋印経法』という行法次第(供養の方法)を刊行し、ご住職さま方に仏頂尊や宝篋印塔への関心を深めていただきたいと考えました(下写真・青山社刊)。
仏頂尊とは仏さまの頭上に盛り上がった仏智(肉髻といいます)を、尊格として象徴した仏さまです。よく不機嫌な顔つきを「仏頂面」などといいますが、とんでもないことです。仏さまの智恵が最も集まっているので「尊勝」とお呼びするのです。
また宝篋印塔という石塔も五輪塔(光明真言の塔)と並んで、その功徳ははかり知れません。そのことは『宝篋印陀羅尼経』に明記されています。つまり、「三陀羅尼」は光明真言と共に、先祖供養への最勝の陀羅尼だといえるのです。
私のささやかな刊行によって、ご住職さま方が三陀羅尼への意欲をさらに深めていただくことを願ってやみません。
金運宝珠護摩の参詣
令和6年5月20日
昨日、金運宝珠護摩が奉修され、パワーあふれる如意宝珠の浄炎に、大勢の皆様が参詣されました(写真)。
金運宝珠護摩は毎月第三日曜日の午前11時半からです。参詣の皆様には全員に〈金運銭〉を差し上げ、一ケ月後に返却していただいて、新しい金運銭をまた差し上げています。
この金運宝珠護摩に参詣すると、「給料が上がった」「仕事が増えた」など、多くのご報告が寄せられます。このブログを初めてご覧になった方も、ぜひご参詣ください。不思議な霊験が訪れます。
明日が金運宝珠護摩
令和6年5月18日
あさか大師では明日の午前11時半より、人気の〈金運宝珠護摩〉が奉修されます(写真上)。お詣りの方には全員、金運銭(写真下)を差し上げ、金運増大のお加持をいたします。
現代生活において、お金はきわめて重要な意味があります。この金運宝珠護摩は、お金に対する偏見を正して認識を改め、お金に愛される生活を目ざすものです。これについてはお護摩に先立って、法話もいたします。護摩木(一本200円)は玄間にてお申し込みください。皆様のご参詣をお待ちしております。
地鎮鎮壇法の実修
令和6年5月16日
昨日、古河市の大行院様(建立中)の依頼により、新しいお寺のための地鎮鎮壇法を修しました(写真・左が筆者)。
真言密教のお寺を建立する場合は、必ず地鎮鎮壇法を修し、大壇や護摩壇の下に地天(土地中心の神様)への宝瓶と五色玉を、また八方天(八方の神様)への輪宝・独鈷杵という法具を埋め、五穀粥を献じなければなりません。ただ、仏具店で簡単に買える法具ではありませんし、修法を伝承した阿闍梨(真言密教の導師)も少なくなりました。
昨日は私が導師を、法友が正鎮師(副導師)を、あさか大師の弟子僧2名が承仕(役僧)となって、無事に奉修を果しました。一同が貴重な体験をさせていただきましたことに御礼を申し上げますと共に、大行院様の寺門興隆をお祈りいたします。
続・水子供養の大切さ
令和6年5月15日
平成22年に、私は『水子供養次第(地蔵・観音)』という著書を刊行しました(青山社刊・写真は地蔵法)。
これはもちろん、僧侶用の専門書でありますが、水子供養に関心を持っていただき、現代社会の急務として励んでいただくことが目的でした。おかげさまで、多くの寺院に普及し、水子供養の実践書として長く愛用されてまいりました。同書は現在、品切れになっていますが、近くまた増刷される予定です。
同書の中で私は、自分で作詞・作曲をした〈水子供養和讃〉をご披露しました。和讃はご詠歌と共にお唱えされる仏教音楽です。私も水子供養の折にお唱えしていますが、特に女性の方は涙を誘われるようです。参考までに、この場をお借りして掲載いたしましょう。水子さんのこの気持ちを、どうか汲んであげてください。
水子供養の大切さ
令和6年5月13日
あさか大師で水子供養をなさる方が増えてまいりました(写真)。
水子さんはどのご家庭にもいます。よく、「水子霊の祟り」などという方がおりますが、水子さんはこの世の業苦を味わっていませんので、祟りをなすほどのことはめったにありません。ただし生縁を受けながら、産まれ得なかった無念さは残ります。また、同じ母親から産まれた兄弟たちを「うやらましい」という思いも残ります。
このことが、無事に産まれた子供さんとの親子関係に影響しないはずはありません。特に現代は、中絶された水子さんが多いので、水子供養は重要な課題となります。僧侶の方もまた、そのことを自戒せねばなりません。
だから、しっかりと供養をしてあげることが大切です。供養をしてあげると、とても感謝します。夢に出ることもあります。それも、少し成長した姿で出ます。このブログをご覧になった皆様には、そのことを記憶に留めていただきたく存じます。
ご希望の方はあさか大師ホームページの「水子供養」をご覧いただき、「お問い合わせ」からご連絡ください。遠方の方でも、充分に対応いたします。
5月の伝道法語
令和6年5月9日
5月の伝道法語です。
よく、才能があるとかないとかいいます。
しかし才能などとされるものが、そうそう目につくわけでも、簡単に見つかるものとも思えません。また、生まれながらに才能があったとしても、ただ眠らせているだけでは、何の役にも立ちません。才能とはその人の奥深くに、静かに眠っているからではないでしょうか。
才能は一つのことをコツコツと、長く長く続けられる努力によってこそ目覚めるからです。名選手は誰よりも長く、誰よりも多く、懸命に練習をします。仕事の業績も同じです。コツコツと、長く長く続けられれば、結果は必ず現れます。
毎日のわずかな時間を生かしましょう。才能は一日にしては成りません。一生の栄養も、毎日の食事からです。漢字ばかりの、むずかしいお経も、毎日続ければ覚えられます。お寺の生活は、同じことを繰り返すことの大切さを教えているのです。