カテゴリー
文化
令和2年11月19日
紅葉の季節になると、いつも思い出す印象的なお話があります。それは茶道の宗匠・千利休がまだ若い頃、師匠の武野紹鴎のもとで修行をしていた頃のことです。
ある日、紹鴎が茶会の客を招くため、念入りな準備をしていました。茶席の道具を取りそろえ、内外を掃き清め、水を打ち、充分な掃除も済ませました。そこで紹鴎は一計を案じ、利休を試そうとしました。掃除はすべて済んでいたにもかかわらず、「露地の様子を点検しておきなさい」と命じました。
庭も露地も万全を尽くしたのですから、塵ひとつ落ちているはずがありません。しかし、そこが利休の非凡なところです。ある紅葉の下に行くと、その樹を何気なくゆすり動かしました。すると、色づいた紅葉がパラパラと露地に落ちました。美しい模様が点々と露地に描かれたのでした。利休は「お師匠さま、路地を点検しました。ご覧になってください」と言うや、紹鴎はその侘びの風情に驚きました。完璧に掃き清めた露地はもちろん美しいのですが、自然な落ち葉はさらにその風情を深めるからです。「この子はただ者ではない」と思ったのも、無理はありません。
利休は侘びの極みを心得ていたのです。つまり、最高の侘びとは美を極めて、さらにひとつ脱落したところにあるからです。つまり「不完全の美」にこそ、その境地があるということです。だからといって、作為的に手を加えても、侘びの極みにはなりません。そこを間違えてはなりません。
利休は後に、最高の宗匠となって、侘び茶を大成しました。さすがに紹鴎が見込んだだけの人物だったということです。ただ、私たちが同じことをしても〝不行き届き〟になるばかりです。マネをしてはいけませんよ。