シクラメンの「かほり」

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令和元年12月5日

 

『シクラメンのかほり』が流行はやった頃、作詞・作曲の小椋佳おぐらけいさんは第一勧銀(当時)の行員でした。取引先の会社で休息をしていた時、なじみのない花であったシクラメンを見て、突然に浮かんで来たそうです。なじみのない花から名曲が生まれるのですから、音楽とは(いや、むしろこの世そのものが)奇妙なものです。

真綿色まわたいろした シクラメンほど すがしいものはないーー」。実は、この歌詞には問題があるとの指摘してきがありました。

 ①「香り」の旧仮名きゅうかなづかいは「かをり」であって、「かほり」ではないこと。

 ② シクラメンにはにおいがなく、したがって「かほり」もないこと。

 ③「真綿色」という日本語はないし、白のシクラメンは純白であること。

様、いかがでしょうか。この指摘に反論ができますでしょうか。

 ①については、歌人や俳人からただちに指摘がありました。「香り」の由来は「香居(を)り」だからです。もっとも、平安時代には「かほり」と表記することもあったそうですが、小椋さんがそこまで意識したとは思えません。

 ②は確かにそのとおりです。少なくとも、この当時のシクラメンに「かほり」はありません。

 ③については私が所持する『日本の色辞典』で調べましたが、やはり「真綿色」はありませんでした。真綿とは絹の綿です。白にほんのりと薄い黄を帯びた色ほどに考えられますが、しかし白のシクラメンはまったくの純白です(写真)。

ころが、私は数年前に小椋さんの奥さんの名が「佳穂里かほり」であることを知りました。妻に捧げた思い出の歌であるなら、この「かほり」でいいはずです。小椋さん自身はこのことを否定するような発言をしたそうですが、さあ、どうでしょう。「出逢であいの時の君のようです」「恋する時の君のようです」「後ろ姿の君のようです」と、これは明らかに一人の女性を歌っています。

文章作品は、現実と虚構きょこうとが微妙にからみ合うものです。だから、〝うそ〟を描くのは常のことです。つまり、このまぼろしの「かほり」さんとの出逢であいの時と、恋する時と、別れ道の時を、三色のシクラメンで表現した抒情詩じょじょうしのです。奥さんであってもいいし、架空かくうの女性であってもいいのです。そして、純白ではない「真綿色」という造語も、香りのないシクラメンも「かほり」さんには必要だったのです。「まどう別れ道」でゆれれていたのも、シクラメンのような「かほり」さんでした。これが正しいと、私は確信しています。

私が葬儀をしたある男性で、「和尚おしょうさん、何もいらないから若さだけが欲しい」と語った故人がいました。若い青年も、そして熟年も、〝ときめき〟を忘れてはなりません。それが〝若さ〟なのです。歌の最後には、「呼び戻すことができるなら 僕は何をしむだろう」とも。

山路天酬密教私塾

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