令和元年12月20日
人は〈欲〉で生きています。あれが欲しい、これが欲しいと思うからこそ懸命に働き、悩み、傷つき、時には笑い、喜び、欲しいものを得れば満足します。
ところが、その満足が続くかというと、そうはいきません。お金が欲しいといいながら、お金が手に入れば今度は、そのお金を維持することで苦しみます。名誉が欲しいといいながら、その名誉が手に入れれば今度は、さらに上の名誉が欲しいと苦しみます。一つが手に入れば、さらに上を望み、一つが欠ければ、また次を望むのです。人は苦しみがあるから苦しむのではなく、自らの欲によって、その苦しみをつくり出して苦しんでいるのです。
では、その苦しみのもとである欲を捨てることができるかというと、そうはいきません。人が生きるとは、実は生きることそのものが欲であるからです。お金も名誉も、健康も趣味も、勉学も教養も、さらには美しいものも、心のやすらぎも、すべては欲がなくして得ることはできません。欲があるからこそ、求めるものを得ることができるのです。「求めない」ことを美徳とする方がいますが、それは「求めない」ことを求めているのだと私は思っています。
お釈迦さまやお大師さまでさえ、大きな欲がありました。それは私たちのようにお金が欲しいとか、名誉が欲しいとかいった小さな欲ではありません。「一切の人々を救済しよう」という、とてつもない欲でした。欲を捨てるのではなく、逆に生かすことでこれを実践したのです。真言密教ではこれを「大欲清浄」といいます。
人はおおいに欲をかくべきだと、私は思います。ただし、清らかな欲をかきましょう。人を喜ばせ、家族を守り、仕事に励み、世の中の役に立つような欲をかきましょう。欲はそれ自体が悪いのではなく、その使い方によって善にも悪にもなるのです。おおいに欲をかき、清らかに生かしましょう。「大欲清浄」です。