2020/05の記事

病気になるから健康を守れる

カテゴリー
健康

令和2年5月6日

 

私は健康法についてはかなり勉強し、各地の道場に入門したり、いろいろなセミナーも受講しました。また整体やカイロプラクティックの免状も習得しました。

だからといって、健康診断の結果にいちいち一喜一憂いっきいちゆうしているわけではありません。なぜなら、健康の定義も人それぞれという事実を知っているからです。人は健康や健康法について、知れば知るほど神経質にも不安にもなるのです。もしかしたら、自分は間違っているのではないか、こちらの方が正しいのではないかと思うものなのです。

十人の医師や管理栄養士の本を読めば、十人の主張があります。そして、結局はあれもダメ、これもダメとなって、何が何だか分からなくなるはずです。なぜなら、正しい健康法は人によってそれぞれに異なるからです。糖質制限もジョギングも、万人に合うはずがありません。一つの食材やサプリメントで、万人が健康になるはずがありません。自分の健康法は、自分の体が一番よく知っているのです。自分にはこれが合うという方法を見つけ出す以外にはないのです。

私はなるべくテレビをないようにしています。必要もない番組に時間を費やすことなど、もったいないからです。ところが、まれにスイッチを入れると、画面はたいていグルメ番組か健康番組です。タレントさんの「うーん、おいしい!」を聴きながら、国民は何を思っているのでしょうか。また、どういう症状が現れればどんな病気だとか、検査の数値がいくつを超えると異常だとか、体脂肪を減らすには何を食べろとか、まるで知らなければ罪であるかのように強迫して来ます。

疲れやすくなったと思えば、誰でも気にはなるものです。そこで病院に行けば血圧を測り、血液検査を受けることとなります。その結果は高血圧と申告され、肝臓機能が悪いと診断されます。GОTやGPTが何を意味するのかもわからないのに、その数値に翻弄ほんろうされるのです。現代人は〈正常値〉を通じてしか、自分の健康を考えられなくなりました。

そもそも体に異常が生じるのは、その人の体に必要があるからです。異常が見つかるのも自然なことなのです。高齢になれば血管も硬くなります。肝臓も疲れます。数値だけを切り取って、すべて悪いことと決めつけるのもいかがなものでしょうか。人は病気になるから健康を守れるのです。体が何も教えてくれなければ、人生をまっとうすることなどできません。

もちろん、医師の忠告は聞きましょう。できることは実行しましょう。でも、病気になるのも生命の尊いはたらきなのです。もっと、自分の体を信じることです。もう一度お話をしますが、人は病気になるから健康を守れるのです。病気になりながら、一生懸命に自分の体を守っているのです。そうでしょう。

めったにないもの

カテゴリー
社会

令和2年5月5日

 

枕草子まくらのそうし』第七十二段に「ありがたきもの」、つまり「ることがかたいもの」「めったにないもの」として次のような例がげられています。

まず、「しゅうとにほめられる婿むこしゅうとめにほめられるよめ、毛のよくぬける銀の毛抜けぬき、主人の悪口を言わぬ使用人」と。舅と婿、姑と嫁の関係は、平安時代から変らないということです。舅は娘かわいさに、お婿さんに多くのことを求めます。また姑は、まるで息子がお嫁さんにうばわれたような感覚におちいるのは、今も昔も同じなのでしょう。最近では同じ家に同居しながら、姑と嫁がまったく口もきかないという例を耳にします。銀の毛抜きは当時の女性がまゆをぬいて、眉墨まゆずみで描くための必需品でした。優品は少なかったのでしょう。そして、使用人は影で主人の悪口を言いながら、人使いの荒さに耐えていたのです。ほどほどの悪口なら、許してあげましょう。

次に、「欠点のない人、評判がよくても世間から少しの非難も受けない人」と。この時代にインターネットがあれば、まず話題に欠くことはありません。ことにし暑い京都で束帯そくたい十二単衣じゅうにひとえなどを着用していたら、ねたみ心の一つも発散しなければやり切れなかったのでしょう。凡人の悲しさというものです。

次に、「同じ職場で礼儀を守っていても、最後まで本音を出さないこと」と。人の本音は必ずどこかに現れます。居酒屋で語ったほんの一言ひとことは、回り巡っていつかは相手に伝わるものです。「かべに耳あり、障子しょうじに目あり」なのです。そして「口は災いのもと」なのです。

次に、「本を写すのに、原本を墨でよごさぬこと」と。この時代にコピーがあれば、こんな気づかいは無用でした。私も白衣や法衣によく墨をつけるので、この気持がよくわかります。

最後に、「男女の間でも、女どうしでも、最後まで仲が良いこと」と。特に、女性どうしの仲のよさには用心せねばなりません。親しい仲と思って気を許すと、とんでもない間違いをしてしまいます。いつも連れ立っているから、よほど仲がよいなどとは決して思わぬことです。このことでは、私も何度も失敗をしました。

清少納言せいしょうなごんという彼方かなたの女性と、もしも茶飲み話でもしたならば、腹の底まで見透みすかされるに違いありません。人間に対しても自然対してもするどく、味わい深い観察眼には驚くばかりです。このような才女とは、本の中でさえつき合っていれば、互いに飽きることもありません。私の大切なガールフレンド(!)です。

四種類の人間 

カテゴリー
人間

令和2年5月2日

 

二十代の始め頃、ある先輩から世の中には四種類の人間がいると教えられました。長く記憶から遠のいていましたが、急に思い出したのも何かの縁なのでしょう。

その四種類の人間とは、「金持ちの金持ち」「金持ちの貧乏人」「貧乏人の金持ち」「貧乏人の貧乏人」とのことでした。そして、その先輩の説明によると、この四種類の人間とは次のような意味でした。

まず「金持ちの金持ち」とは、お金にも恵まれ、加えて徳をそなえた理想的な人です。こういう人は世の中が求めるものを提供し、世の中に尽くすことを喜べる人です。だから、お金にも恵まれますが、多くの人々から感謝され、尊敬されています。自分の財産を世の中のために進んで投げ出しますから、世の中から喜ばれる分、その財産がまたもどって来ます。つまり、望まずとも財産がますます増えていく人です。

次の「金持ちの貧乏人」とは、まずお金のことしか頭にない人です。いかにしたらもうかるか、それだけを考えて生きています。だから、人がそんをすれば自分がかると、そういう発想しかできません。きらわれようがうらまれようが、そんなことは気にしません。心を許せる友人もいませんし、世の中から喜ばれることもありません。一時的に大金を手にすることはあっても、いずれは必ず一文無しになる人です。

次の「貧乏人の金持ち」とは、たぶん世の中の大半の人が自分のことだと思う種類のはずです。つまり、お金はないけれども体は健康だし、まじめに働いているし、家庭もまずまずだし、平凡ではあっても幸せな人生だと思っている人です。友人もいるし、趣味もあって、楽しい時間も過ごしています。そして、できれば何か世の中の役に立つことをしたいと願ってもいます。つまり、心の豊かさを財産とする人です。

最後の「貧乏人の貧乏人」とは、文字どおりお金もなく、心も貧しい人です。借金も多く、家賃も滞納たいのうし、いつも催促さいそくや取り立てばかり受けています。それでいて平気で人をだまし、うそをつき、時にはおどし、詐欺さぎもはたらきます。警察のやっかいになったことも、二度三度ではありません。誰も信用しませんが、誰からも信用されません。つまり、世の中から必要とされない、もっとも不幸な人です。

なかなか説得力のある説として、当時の私にはかなりのインパクトがありました。その後の人生の中で、何度も「なるほど」と納得したものでした。皆様はどう思いますか。どの種類に入りますか。きっと「〇〇〇〇〇〇〇」でしょうね。

日本人の弱点

カテゴリー
社会

令和2年5月1日

 

日本人に弱点があるなら、それは何かと問われた場合、私は「ずかしがることでしょう」とお答えしています。

日本人は勤勉であり、清潔であり、思いやりを持った国民です。しかし自分を表現することとなると、残念ながらがいして積極的ではありません。それは、恥ずかしがる気持ちが根底にあるからです。そのことは外国人と比べれば、すぐにわかります。ご存知のように、多くの外国人は強烈に自分をアピールし、「イエス」か「ノー」もはっきりさせます。欧米はもちろん、アジア諸国の方々でさえ同じです。お隣りなのに、中国や韓国と方々ともかなりの差があります。

もちろん、恥ずかしがることにも美徳があると私は思います。謙遜けんそんで出しゃばらず、失敗をはじとすることによって、平穏な社会を保つことができるはずです。曖昧あいまいではあっても、その繊細せんさいな配慮が人間関係を円満に処理しているともいえましょう。これは日本人の文化であり、国民的な伝統として賞賛しょうさんすべき一面はあります。

しかし、恥ずかしがることがまったく意味をなさず、無能な人間とまで見なされる可能性も多分にあります。現代社会は自分でアピールをしなければ、何も進みません。他人から聞かれるまで黙っているようでは、認めてもらえません。政治でもビジネスでも、交渉力や説得力の強さが求められるのは当然です。日本人はこのことを、しっかりと自覚する必要があります。そして子供の時から、自分の意見をアピールする教育をすべきです。ただ「おもしろかった」「楽しかった」だけではなく、何が、どのように、どうしてかを主張する訓練をすべきです。

いつも思うのですが、テレビで外国の政治家がスピーチをしている姿を、そのまま映画の一場面として想像しても、何ら遜色そんしょくはありません。俳優さんにも女優さんにも見えてくるはずです。では、日本の政治家はどうなのでしょう。もちろん、上手な方もいます。しかし、いまだに下を向いて原稿の棒読みしている方も多いはずです。そして、どうしても言葉の間に、「あのー」「あのー」と連発します。これは日本語の構造上、何か原因があるのでしょうか。

真言密教の曼荼羅まんだらにはたくさんの諸仏しょぶつが描かれています。そして、それぞれに個性が豊かで表現力に満ちています。如来にょらいさまも、菩薩ぼさつさまも、明王みょうおうさまも、そして天部てんぶの神さまも、いろいろな持ち物で誓願せいがんを示し、光かがやき、微笑ほほえみ、歌い、踊り、音をかなでています。私たちに「このように生きなさい」と教えているからです。

山路天酬密教私塾

詳しくはここをクリックタップ