2023/03の記事

人は病気をするから健康なのです

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健康

令和5年3月8日

 

人は病気をするから健康なのです。健康だからこそ、そして健康を維持するためにこそ、病気になるのです。完全な健康など、絶対にあり得ません。

病気は本来、健康を守ろうとする尊い働きです。熱が出るのは害菌を減らし、汗によって毒素を排出させようとする働きです。痛みが出るのは血液を集め、病根を壊滅させようとする働きです。吐気はきけ下痢げりも、同じことです。このような症状が何一つ現れないとするなら、私たちは体の異常を感じ取り、健康を守ることなどできません。私たちは病気をするから健康を守ることができるのです。そして、病気をしながら健康を維持しているのです。

つまり、病気をすることと健康であることは同時にあるのです。『般若心経』はこれを「色即是空しきそくぜくう」と表記しています。〈色〉は病気なら、〈空〉が健康です。一般にはこれを「しきすなわくうなり」と音読し、〈色〉と〈空〉はイコールであると定義します(写真は金岡秀友『図説・般若心経』)。

しかし、私はこれを「しきくうそくし」と音読してはどうかと主張しています。〈色〉と〈空〉はイコールではありません。病気と健康もイコールではありません。少なくとも人は、病気と健康が等しいなどとは夢にも思っていません。たしかに〝反対のもの〟です。しかし、同時にある、即しているのだといえば、いくらかはわかりますでしょうか。

病気は体の異常を感じ取り、同時に健康を守ろうとする尊い働きです。イコールではなく、同時にある、即しているということです。私たちには煩悩ぼんのう(色)があります。しかし、煩悩があるとわかるのは、本来は菩提さとり(空)があるからです。本来は仏であるからです。煩悩と菩提は反対のものですが、実は同時にある、即しているのだということです。これが「煩悩即菩提ぼんのうそくぼだい」という仏教の教え、万古不変の真理です。

お腹が痛くなったら、胃に「教えてくれて、ありがとう」と言いましょう。動悸どうきを覚えたら、心臓に「こんなに負担をかけて、ごめんなさい」と言いましょう。こうして薬を飲めば、回復が早まります。お大師さまにご祈願をすれば、さらに早まります。私たちは病気をしながら、健康を維持しているのです。病気は健康を守ろうとする尊い働きです。

人が本来は仏さまである証明

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真言密教

令和5年3月7日

 

人は誰でも、本来は仏さまなのです。なぜなら、誰に教えられたわけでもないのに、仏さまの真言(マントラ)を唱えながら生れて来るからです。その事実を証明しましょう。

日本人は赤ちゃんの産声うぶごえを「オギャー」と表現しますが、このことに私は以前から疑問がありました。なぜなら、赤ちゃんは口を大きく開けて泣くからです(写真提供はユニ・チャーム)。口を大きく開ければ、〈ア〉の発声はできますが〈オ〉の発声は絶対にはできません。つまり「オギャー」ではなく、実は「アギャー」と泣きながら生まれて来るのではないか、と私は主張しています。ただ、赤ちゃんは大人のようには、ハッキリとした発声ができません。だから、〈ア〉なのか〈オ〉なのか曖昧なのです。でも、よく聞けば、やはり〈ア〉のはずです。ネットで産声を聞いてみてください。私がお話していることが、事実だと納得できるはずです。

 

では、「ア(阿)」とは何でしょう。実は、これは大日如来の真言なのです。真言密教の根本であり、最も大切な仏さまなのです(写真はその梵字)。赤ちゃんはこれを、誰に教えられたわけでもないのに、唱えながら生れて来るではありませんか。だから、人は生まれながらに仏さまなのです。

また、「アギャー」の〈ギャー〉は何でしょう。皆様がご存知の『般若心経』の真言「ギャーテイ、ギャーテイ」は〈到達した〉と解釈します。だから、「アギャー」は「仏の国から、いま生まれて来たぞ!」と大声で宣言しているのではないか、と私は大胆に推察しています。皆様はこの推察を、何とお思いでしょうか。

人はこうして仏さまとして生まれながら、しだいに煩悩のあかが増え、四苦八苦の人生を歩みます。だから、垢おとしをする必要があります。信仰に精進するのも、修行に励むのも、先祖供養をするのも、すべてはこの意味です。お寺で庭をき清める時は、「ちりはらい、あかのぞかん!」という気持でほうきを持つのは、この意味なのです。

パワースポットにも用心を

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真言密教

令和5年3月5日

 

あさか大師では昨日と今日、お彼岸前の総回向を修しました。お護摩と同様に、僧侶はもちろん、ご信徒の参詣者も全員が世代を超えて読経しました(写真)

お寺に行っても、格別にパワーを感じない場合があります。それから、昔はすごいパワーがあったのに、今は残念だなと思う場合もあります。そして、入っただけで気分が良くなり、体が軽くなる場合もあります。この違いは何なのでしょうか。

ご祈願であれ、ご回向であれ、成就をするためには三つのパワーが必要とされています。すなわち、ご本尊さまとお導師とご信徒の三つパワーが融合しなければ、ご祈願もご回向も成就しないという意味です。そのためには、普段から三つのパワーを融合させねばなりません。お導師だけが頑張っていても片手落ちです。ご信徒が自力で頑張っても、その祈りには限りがあります。特に真言密教のお導師は、ご本尊さまに感応する行法がありますから、ご信徒はお導師と共に、いっしょに祈ることが大切なのです。また、毎日続けることも大切です。年に一度の大祭や記念行事だけでは、本当のパワーは生まれません。

したがって、この三つのパワーが融合しているお寺に行くと、気分が良くなり、体が軽くなり、不思議なパワーがみなぎって来るのです。あさか大師にもいろいろな方がいらっしゃいます。僧侶の方が葬儀をしたり、火葬場に出向いた場合、体が重くなったり、体調をくずす方もいますが、本堂に一歩入るや、体が軽くなり、体調を取り戻しています。ご信徒の方も同じです。ご信徒の場合、よほど具合が悪い場合は、直接にお加持や整体をすると、たいていは解決します。

それはどうしてかといいますと、毎日ご信徒と共に、この三つのパワーを融合させているからです。まさに単純明快、これ以外には何もありません。よくパワースポットといいますが、常にパワーを融合させる管理者(つまりお導師)がいなくてはかえって危険です。用心せねばなりません。このことは念頭に入れておいてください。

人は臨終で何を思い出すのか

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人間

令和5年3月2日

 

人はターミナルステージ(末期)を迎えた時、子や孫の名をさかんに呼ぶことがあります。これはこの世で過ごした家族への想いがこみ上げて来るからでしょう。また、現実には誰もいないのに、子や孫がそこにいるといった幻覚を伴うことも特徴のひとつです。私も思い当たる例を、何人か知っています。

また、例外なく「水が飲みたい」と訴えます。すでに体は衰弱し、呼吸や発声もむずかしく、水を飲み込むのも困難なはずなのに、もうろうとした意識の中で水を欲するのはなぜなのでしょうか。特に私の祖父がそうであったことをの当たりにして以来、私は長い間このことが気になっていました。

私論をお話するなら、これは母親の胎内で羊水ようすいに浸っていた記憶がよみがえっているからではないでしょうか(写真提供・竹内正人医師)。血液の主成分は水です。その血液の流れる肉体が終ろうとする時、この世に誕生する前の、胎内での〝ふわふわした思い出〟が浮上するのだと推察されるのです。それだけに、水と生命が密接に関わっていることは言うまでもありません。水こそは生命が欲する最初の、そして最後の物質なのです。

また、さらにお話をするなら、いわゆる〈末期まつごの水〉もまた、この羊水への回帰を意味するのではないかと私は思っています。意識が肉体を離れるその時、末期の水は最高の贈り物です。そして、人の想いを伝える最高の媒体ばいたいも水です。真言密教では修法の始めに、水を用いた〈洒浄しゃじょう〉という作法で道場を清めます。仏壇にも必ず水を供えます。お墓参りにも、まずは水桶が必要です。人は水がなければ、この世もあの世も生きられません。

単に、乾いた唇を湿らすだけではないのです。あの世に旅立つ大切な儀式です。末期の水を差し上げるだけでも、旅立つ人はその人に感謝を捧げるはずです。決して、おろそかにはなさいませぬよう。

山路天酬密教私塾

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