2020/07の記事

天使の贈り物

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人生

令和2年7月8日

 

アメリカにミルトン・エリクソンという著名な心理学者がいました。おもに二十世紀の後半、特に催眠さいみん療法や心理療法の分野で活躍した先生で、日本でも多くの著作が刊行されています。

ある日、大変に裕福な老婦人が先生を訪ねました。

「先生、私はお金に不自由することはなく、大邸宅に住んでいます。いつも立派な家具に囲まれ、やといのコックがすばらしい料理を作ってくれ、家事はすべてメイドがやってくれています。私はスミレを育てることだけは得意ですが、それでもさびしくてたまりません。私ほど不幸な人はいないと思います」

「では、家に帰ったら教会に来る人のリストをもらって、誕生日の順に並べてください。誕生日が来たら、あなたの育てたスミレにカードを添えてその方の家に置いて来きてください。ただし、誰から届けられたかわからないようにしなければなりません。あなたがこの世で一番幸せになることを保証しますよ」

その老婦人は、さっそくこれを試しました。先生から言われたとおり誕生日のリストを作り、スミレの鉢植えに誕生カードを添え、朝の三時に起きて、誰にも見つからないようにして、誕生日の人の家にこっそりと届けました。

そのうち、このことが町で評判になりました。ここはすばらしい町で、誕生日が来ると天使がスミレの鉢植えを届けてくれるといううわさが立ちました。誰が届けてくれたのかがわからないので、人々は「天使の贈り物」と親切な噂を流したのです。

こうして半年が過ぎ、老婦人はエリクソン先生に電話をしました。

「教えていただいたとおり、誰にもわからないようにしてスミレの鉢植えを届けています。天使が届けてくれたという噂がたっています。とてもうれしいことです」

「そうですか。ところであなたはまだ不幸ですか。半年前はたしか、私ほど不幸な人はいないとおっしゃっていましたよ」

「とんでもない。私ほど幸せな人はいません。私が不幸だなんて、もう、すっかり忘れていました」

この老婦人のような幸せは、私たちの足元にいくらでもあるのです。小さな親切が巡り巡って周囲をうるおし、それを喜んだ人が今度は自分に親切をしてくれるのです。この老婦人のように、皆様も親切を与えれば必ず幸せになれます。そして、人生の最後に残るのは、与えたものです。

産婦人科の「慈心妙手」

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仏教

令和2年7月6日

 

東京慈恵医科大学の産婦人科は創立110年を超える伝統がありますが、その初代教授が樋口繁次ひぐちしげじ博士です。博士は子宮筋腫等の婦人病に対する「樋口式横切開法」を確立しましたが、一方では熱心な仏教の信仰者でもありました。あまり知られてはいませんが、私は博士の仏教観が医学界に普及されことを念じている一人です。ちなみに、博士のことを手元の『新潮日本人名辞典』で検索しましたが、残念ながら記載されてはいませんでした。大変に惜しいことです。

一般に科学者は分析や統計に傾倒し、精神的な、また宗教的な人生観を持つ方は少ないように思います。ところが樋口博士の病院では、玄間・控室・院長室・薬局・手術室・看護婦室、いずれにも「慈心妙手じしんみょうしゅ」の額縁がかけられていました。しかも、それらは当時の、名だたる高僧の揮毫きごうによるものばかりでした。「慈心妙手」とは観世音菩薩の慈悲をもって医術に精進するという意味です。つまり、観音さまのような心で患者さんに接するべきであるという教えを示したものでありましょう。これは博士が、その生涯にわたって貫かれた医術の信念でありました。

博士が執刀する患者さんの手術を、学生に見学させる時のこと。患者さんがいよいよ手術台に横たわり、準備がすべて整うや、厳粛げんしゅくな中で博士も助手も看護婦も瞑目めいもくして合掌します。沈黙の時間が続く中、その高貴清雅な姿に、若い学生さんたちもまたいっしょに合掌するのでした。まさに「慈心妙手」の実践を見せられた思いであったことでしょう。

このような手術を受けたならば、本人はもちろん、その家族も見学した学生も、その縁に深い感動の念をいだいたことでありましょう。担当した助手も看護婦も、職務に対する新たな喜びと希望を体得したに違いありません。「医は仁術」とも言いますが、これが本来の医術ではないかと私は思います。

およそ合掌ほどすがしく、美しい姿はありません。合掌する本人はもちろんのこと、それを見る者もまた、大きな霊的世界に引入されるからです。さらに私の見解を申し上げるなら、本人の父母や祖父母、叔父や叔母までも見えない姿で合掌していると感じられるからです。つまり、いろいろな人の力が結集して、私たちは合掌する姿を顕現けんげんしているに違いありません。たとえその場は限られた室内であったとしても、そこに込められた祈りは想像も及ばぬ範囲に関与しているに違いありません。人は日常の何気ない生活の中にも、多くの世界と関わりながら〝自分〟という人生を過ごしているのではないでしょうか。

医術の成果も、信仰の裏づけがあればこそ、大きく花開くことを信じてやみません。そして、その花を開くのが合掌の姿なのです。南無観世音菩薩。

盂蘭盆会法要

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あさか大師

令和2年7月5日

 

あさか大師では昨日と本日、午前11時半にいつものお護摩を、午後1時には早くも盂蘭盆うらぼん法要を修しました。新型コロナウイルスの感染者数が再び上昇し、参詣を断念した方々もいらっしゃいますが、まずは集まった皆様と共に精霊回向の法要を修しました。そして、お施餓鬼せがきの説明をして(写真)、全員でその作法も修しました。

得度とくどをなさった僧侶の方々も声明に慣れ、お稽古の成果がよく出ていました。努力が実ってすばらしいと思い、よかったと思いました。ただ、私の法要に対する考えは、参詣者の方々との一体感を重んじることです。立派な声明や『理趣経りしゅきょう』の読誦どくじゅも大切ですが、「在家勤行式ざいけごんぎょうしき」を活用して、僧侶と参詣者が共に読経することが肝要ではないでしょうか。参詣者の方々は、皆様とても熱心なので、太鼓の響きに合わせて光明真言が堂内に遍満します。その唱和は「おみごと」としか言いようがありません。

今月はまた三名の方が得度を受けますので、法衣の着用を指導したり、その打合せをしました。また、加行けぎょう(教師になるための修行)の伝授もしました。すべてが終わった後は、さすがに疲れました。今日はこれで失礼させていただきましょう。

「霊障」とは何か

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仏教

令和2年7月2日

 

先の大戦では、多くの青年が「特攻隊」として飛行場や空母から離陸し、その若い命を散らしました。

では、その特攻の青年たちは何と叫んで敵艦に突撃とつげきしたのでしょう。「天皇陛下万歳!」と叫んだでしょうか。多くの皆様が、そのように思っていらっしゃるはずです。しかし、実際は違うのです。では何と叫んで、人生の最後を遂げたのでしょうか。私はよく父から聞かされました。「お母さーん!」と叫んだはずだ、と。そして、その胸のポケットには、多分に母親の写真を忍ばせていたはずだ、と。

私の兄は二十七歳の短命に終わりました。亡くなった後にその遺品を整理していましたら、財布の中に、何と母親の小さな遺影が入っていました。私たち兄弟の母もまた三十三歳と短命でした(私が僧侶になろうと決心した理由の一つです)。生前は母の仏壇に線香ひとつお供えしたことのない兄でしたが、私はこの事実に驚きを禁じ得ませんでした。

つまり男性というものは、常に母親を思うということです。母親を思い、母親から愛情を受けたいと、そう思って生きているのです。母親の乳を吸い、母親の「おふくろの味」で育ち、母親からやさしい言葉をかけてもらえることに無上の喜びを感じるからです。だから、母親との関係を悪くして育った場合、その男性には必ず問題が生じます。

これはなぜかというと、男性というものが多くは母方の血を引くからです。陰陽の牽引けんいん関係から、そうなるからです。私は長年にわたって人の相談に応じていますが、このことには確信があります。その男性の母方の、祖父母のいずれかに似るからです。だから、男性に何かの問題がある場合、「母系供養」が絶対に必要だということです。これは霊が〝たたる〟などという意味ではありません。いつもお話していますが、この世とあの世は同じものです。一対の鏡が写し合うように、一対の音叉が共鳴し合うように、同時にあるからです。つまり、私たちはこの世とあの世を共に生きているということです。「霊障れいしょう」という言葉がありますが、あの世の苦しみがこの世の苦しみとなって、共に現れるということです。〝たたる〟のではなく、同じ苦しみを背負い、同じ苦しみを分かち合っているということです。

もう、余白がなくなりました。女性はもちろん、父親を思い、父方の血を引きます。特に父親との関係が結婚運に大きく関わることは、以前にも書きました。だから、女性は特に「父系供養」が大切だということです。おわかりですね。

母系供養の大切さ

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仏教

令和2年7月1日

 

今日から七月に入り、東京近郊では早くもおぼんです。スーパーでもお盆用品が並んでいます。お寺でも施餓鬼せがき法要の準備に取りかかっています。近頃は主婦でもパートなどで留守が多く、いわゆる棚経たなぎょう(檀家の精霊棚で読経するおつとめ)もめっきり減って来ました。それでもお盆ともなれば、墓参をして先祖供養を心がける方は多いはずです。

ところで、私は毎日のお護摩でご祈祷もしますが、実は先祖供養にも力を入れています。朝一番にお大師さまの前で勤行をした後、必ず光明真言こうみょうしんごん土砂加持どしゃかじ(砂粒を如意宝珠として供養する行法)を修しています。土砂加持を修することにより、ご祈祷の威力いりきが一段と高まることを確信しているからです。

その先祖供養のことですが、一般にはどうしてもご自分の家だけに片寄りがちです。というより、ほとんどの方がそれを当然のごとくに考えています。男性はたいていは父方の姓を名乗っています。女性は結婚すれば、実家のことなど口出しすることもありません。そして出生のルーツなど問うこともありません。しかし、これはおかしなことです。私たちは父母両家から生まれて来たのです。戸籍上の問題ではありません。それが血の流れというものです。父方はもちろんですが、母方の供養をおろそかにしてはなりません。私はこれを称して「母系供養」と呼んでいます。

私はホームページでも説明(信仰と供養のイメージ図参照)しているとおり、人の生命を一本の樹木にたとえています。父母両家の根があって、私たちは生かされています。成長すれば枝が伸びて葉もつきます。根が強くて十分な水分や栄養があれば、つまり父母両家の供養が十分であれば、立派な実がなるのです。風通しをよくするために枝おろしをしたり、虫がつかぬよう薬剤を用いることも必要でしょうが、根本は地中の根(まさに根本!)にあるのです。

この樹木の図を示して説明すると、多くの方が共鳴して納得し、私の土砂加持に参加してくれます。ところが、肝心な僧侶の方は、こうしたお話にあまり興味を示しません。もちろん先代住職の回忌ともなれば、法要をいたしましょう。またお寺の庫裡くり(住居)には仏壇がありましょう。そして、仏飯や茶を供えましょう。しかし、どうでしょうか。奥様の実家やその母方のことなど、ほとんど関心を持ちません。「母系供養」の大切さを忘れています。

私は一般の方はもちろんですが、僧侶の方にこそ「母系供養」の大切さを理解していただきたいと願っています。そして、それが血の流れに根ざした本来の先祖供養であることを理解していただきたいと、切に願っています。

山路天酬密教私塾

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